2010.04.29.

51歳の初夢、ということになるのだろうか。29日未明の夢から、かろうじて記憶に残る最後の部分。


セザンヌ「首吊りの家」と、何だかよくわからない室内楽なのだか詩なのだかの関連性について、人前で話をしている。なぜ自分がこんなところで(って、どんなところだったっけ?)こんな話をしているのかよくわからないのだが、話しているうちに二つの作品の意外な関連が明らかになってゆく。そうなのか、そうだったのか、と自分でも驚き興奮しながら話しているのがわかる。しかし、興奮しているのが聴衆にわかってしまうのはまずい。大した用意もなくここへやって来たことがバレてしまうではないか。まさかこれしきのことでバレはしないだろうかと、会場に集まった顔を見渡してみるのだが、どうもひとりひとりの顔がはっきりしない。たしかに焦点はくっきり結んでいる。しかし、見る度に福笑いを組み替えるように目鼻口の位置がじょじょに変化していて、どうにもヒトの顔とも思えず、これはどうしたことか。中には隣同士の顔がぐっちょりとくっつき始めたようなのもいる。これはいったいどういうことか。かといって、聴衆がヒト以外の生き物のようにも思われない。たしかにこちらの話を受け止めていることがわかる気がするのだ。しかし見た目はやはりおかしい。《お前たちはいったい何者なのだ?》、ふっと口をついてそんな言葉が出そうにもなってしまう。いやいや、そんなことにこだわっても何の稔があるものか。それよりも「首吊りの家」の謎の解明だ。

知らず知らずに興奮を抑え切れず声は大きくなる。もはやその程度のことは聴衆に知られたってかまうものか。ところが、大きくなるにつれて、自分の声が二つに分かれ、それぞれ少しずつタイミングのズレたものになっていく。自分の声から聴衆へ届くはずの声が剥がれ落ち、聴衆にはズレてしまった別の声のほうが届くようになってゆく。これはさすがにまずいだろう。しかしどうにもとどめようもない。何だか下手なミニマルミュージックのように、二重にズレてゆく自分の声に焦りながらも口をパクパク動かしていると、今度は頬に亀裂の入ってゆくような感触。頬に変な解放感があって、頬が何だかペラペラと顔から剥がれてしまって、口腔がスースーする。あぁ、講演終了後の自分の生活はどうなるんだろう、こんな醜い頬になったのではだれも相手にしてくれなくなるぞ、という不安と、ああ、こうして声は二声に剥がれてズレてゆくのだな、と納得との間で気分も引き裂かれて、早く話すのを止めてしまわなければ、止めないと本当にどうにかなってしまう。しかし、喋る調子は緩みなく続いて、頬からは何かヌルヌルした粘液状の体液が漏れ始める。おまけに聴衆の顔はますますヒト離れした得体の知れないものになってゆく。会場の外からは、細かなビートの太鼓の音まで聴こえ始める。どうすればいいんだろう、どうすれば……


という、毎度どうすりゃいいのよと戸惑うところでばかり目が醒めるというのはいい加減ヤメにしていただきたいものだと思うよなぁ。うーん。

1974年だったかのセザンヌ展の折に「首吊りの家」のポスター購入したことがある。好きで、長らく実家の僕の部屋に貼っておいた。よく頭に残ってはいるのだが、夢に出てくることは滅多にないような気がする。どういう加減で登場することになったんだろう。まぁ考えても意味はなさそうだけれど。いやはや。


首吊りの家

首吊りの家

「首吊りの家」については、「ポール・セザンヌ-オーヴェール=シュル=オワーズの首吊りの家」(サルヴァスタイル美術館) など参照されたし。

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