09/04/19: 睡蓮の池 アニカ・トール著 菱木晃子訳
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ステフィとネッリは姉妹。
ステフィはスウェーデンのある島から本土の中学へと進学する。
島には養父母が暮らす。
姉妹は、スウェーデンの「子どものみ受け入れる政策」によって、ドイツに併合されたウィーンから預けられ、やってきた。
妹とは別の家庭に受け入れられたが、養親とも慣れ、愛情を感じられるようになったころだった。
中学へ進学を希望していたステフィは、養父母の家からは経済的には進学は難しかったのだが、夏の間、別荘として島の家に避暑に来ていた医者の家族と出会い、下宿先として援助してもらえることになった。
その、都会〈イェーテボリ〉*1での中学生活の様子がこの『睡蓮の池』。
睡蓮の池とは、進学した学校の近くにある、ステフィにとって心の拠り所になる大切な場所。想いを寄せている下宿先の息子に教えてもらった場所だったから。
原作では四部作になっているそうで、第1巻が『海の島』。3,4巻は未訳。
お願いだから、早く(そして丁寧に)訳してください→訳者さま。
私はこの本から読み始めたせいか、1巻よりこちらの方が印象深かった。
主人公はユダヤ人ということで難を逃れて移住して(というより疎開という感じがする)きたのだが、テーマは迫害物として読むよりも、そういう状況下に置かれた少女の成長物語*2として考えたほうが合っている。
この著者、素材の使い方がとっても巧い。
イェーテボリという街も、ステフィやそのクラスメイトの数人もそれぞれ、生々しい感じがして、とかく生気を感じるのだ。
お勧め度☆☆☆
'ああ、ユダヤ人の迫害モノね’とは読まないでほしいと、たぶん著者が願っている気がする言葉遣いなのだ。それよりもたぶん、'イェーテボリに暮らしていた少女の物語’として、町への愛情を感じる。そのなかで、'この町には、大戦中にこんな少女も暮らしていたのよ’というフィクションを作り上げたところに魅力の軸足があると思う。もちろん、スウェーデンの微妙な「中立政策」や「ドイツ圏でのユダヤ人迫害」という歴史的事実を踏まえてはいるけれど。
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後に第1巻『海の島』を読む。
私は、第2巻の方が(先に読んだからかもしれないが)好き。*3ステファの「中学時代」という時期がいいのかも。姉妹の、(ウィーンでの)ドイツ語→スウェーデン語という言語環境の変化が、年齢によって違う点も、なんだか共感できる。*4
☆☆☆にしたけれど、ぜひとも12歳前後にこういう本を何冊も読める環境にいたいと思う。その年齢付近の子が来る図書館なら☆☆☆☆☆で置いてほしいなあ。
09/04/18: サクリファイス 近藤史恵著
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陸上競技での「一番」を目指す走りに、記録は十分に出していたが、心理的に限界を感じていた。
そんなとき、自転車競技を見て、一番になれると分かっているのに一番を逃すこともある、チームワークと役割をわきまえた走りを謎に感じ、その新鮮な驚きに取り込まれ、自転車競技に転じた。
チームのトップが一番で上がり、そのために犠牲になる走りをする選手が一方でいる。
そんな自転車競技に見せられたのだ。
自転車競技が盛んなのは、フランスやスペイン。
ツール・ド・フランスもあれば、そう名作・映画『アンダルシアの茄子』もあった。
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自転車競技。事故も避けられないことが多く、生き死にの瀬戸際ということもある。
白石誓(チカ)は、今の実業団チームでアシストの立場でいる。つまり風よけとなり、先に走り、優勝を手にする選手を最後に行かせる立場。
2番手、3番手だった白石誓が、そのアシストという立場ゆえに、所属チームでの競技・試合の勝敗への起伏、またはこのドラマ自体の起伏に絡めとられ、また生かされてしまう重苦しさにも関わってしまう。チーム競技ゆえに、同チーム内での力関係や駆け引きもある(もちろん、エースを活かすことがチーム勝利への近道だ)。
《サクリファイス》…犠牲となるか、ならされるか、それともなられるか。
二転三転する筋立てに「サクリファイス」というテーマをからめて、もう、これはミステリ以上にミステリらしいのでは? と思ったら、著者は元はミステリを書いていた人だったのです。
「サクリファイス」=犠牲を強いる側と、あくまでサポートに徹する側とが、競技のなかで役割としてある競輪というスポーツ自体が、この物語に不可欠の世界だったと感じ入る。
お勧め度☆☆☆☆☆
2008年の一番の小説だったと言えます。(翻訳ものでは『アメリカにいる、きみ』があるが)
真夏に読んだのだが*1、あまりによすぎて、なかなかここに書けなかった。買って手元において再読しましょう。
余談だけど、表紙とタイトルはちょっとインパクトが小さくて、売り上げには貢献できなかったのでは? (だから本屋大賞は2位になってしまったのでしょう)
『サクリファイス』だと、同タイトルの『犠牲 サクリファイス』(柳田邦男著)を思い浮かべてしまうし、タイトルに込めた意味も後者の方が深みがあるように感じる。
- 注17月4日に読了
09/01/11: 蝶々さん 市川森一著
![]() | 蝶々さん 上 市川 森一 講談社 2008-10-02 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
![]() | 蝶々さん 下 市川 森一 講談社 2008-10-02 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
長崎新聞に掲載していた小説。
プッチーニのオペラ「マダム・バタフライ」に実在していたモデルがいた、という物語。
『蝶々夫人』は、オペラのアリア「ある晴れた日に」は好きだけれど、アメリカ海軍に騙されて自害するという顛末はあまり好きではなかったのだが、このお話はとても面白い。
舞台となった長崎の町を歩きたくなる。
元々プッチーニのオペラ「マダム・バタフライ」も、アメリカ人の書いた小説を元にした戯曲を更に参考してオペラ化したものだった。
"もう一人の蝶々夫人がいた”いや、"本物の蝶々夫人はいたのだ”という設定で書かれたこの小説では、ロチ著『お菊さん』に憧れて同じような出逢いをしてみたいとかねてより思っていた海軍士官がピンカートンに当たる役どころとして現れる。しかし、それは「蝶々さん」の人生の後半の、クライマックスに過ぎない。
オペラでは、日本上陸前の海士官の思いから始まり、出会いと別れの中に蝶々夫人の人生が入れられている、なんともせせこましい感じがする。(それはこの作品に限らず、『椿姫』だろうと『カルメン』だろうと、ヒロインは女なのにヒロインは話題の中心であり語られる側ではあっても、ヒロインからの視線では全然語られないようなものかもしれないが。)
これは、その『お菊さん』にあこがれ、日本という異国情緒あふれる地で、お人形さんのような不思議な日本のゲイシャとの現地婚:「長崎式結婚」を夢見ているアメリカ海軍士官のエジキになる、「蝶々さん」と呼ばれるお蝶さんの出生から自害に至る物語。
終わりは『蝶々夫人』と同じ。けれど、ロチの本を読んできた(つまり、まだ「蝶々夫人」の物語はないという設定で、日本にやってきて、「蝶々夫人」のようなことをした、という物語)ので、相手もゲイシャ、割り切っているでしょう? というアメリカ海軍士官フランクリンに対して、あまりに蝶々さんがウブなのだ。芸者といっても、置屋の養女だし、舞妓のままだし、芸事に励んでいる娘のよう。周囲も教えてあげなよ、と思うのに、誰もが蝶々さんに真実を告げられないで状況を悪化させている。この二人の恋愛(?)、結婚詐欺事件として扱うならば、あまりにひどい。なので、ここは単なるこの物語の後半のクライマックスとだけ考えておいたらいいと思う。
それよりも、長崎の町や、登場してくる脇役の人生・人物が、とても面白い。
長崎の先端の地での、幕末の色の強く残る明治初期から、開国以後の日本の政策の転換にも翻弄される人たち、またはうまく立ち回る人たちを上手に目配りして書いている。
「お蝶さん」を主人公にしながらも、その生家や長崎の町へ出てからでも、"あの町のあそこには誰々が住んでいる”ということを、読者としてちゃんと覚えていられる。人にも町にもとても親しめ、町中の人を書いている郷土小説そのものといった醍醐味がある小説。
佐賀藩と長崎藩との関係や、新日本の政治対立、隠れキリシタンの扱いの数度の転換、開国とその反動、チフスの流行など、その時々にどんな人物がどう行動したかという見本がたくさん出てくる。
私としては、なんといっても、地図も載っている長崎の町がいいなぁ。時々出てくる長崎らしい言葉遣いも。
お蝶さんと、その同級生のユリという隠れキリシタンの谷出身の娘との交流は、生涯にわたって長崎にこの時代に生まれた二人の娘のドラマチックな生涯を象徴しているし、少女小説としてスピンオフしてもいいくらい。
居留地である日本滞在のコレル牧師と夫人。夫人は笛の名手・蝶々さんの生徒として教わりながら英会話では先生でもある。牧師は「長崎式結婚」を知りながら、認められないし止められないという微妙な立場。(それは、キリスト教教会の万人平等主義がありながら、良家の子女のいる学校には芸者という存在が公には認められないとしている矛盾とも似ている)コレル夫人の葛藤。
生まれる前に、父親を政治の混乱で亡くした伊藤蝶。母親も亡くした後に養家の芸者置屋で世話をしてくれたお絹さんとその夫・三浦の動向も愉快。お絹は下女として働いているが、かつては春駒という名で芸妓をしていた。夫となった三浦は、当時のなじみ客だが今は牢獄。そして途中から逃亡の身となる。これを追いかける郷田刑事が、ジャン・ヴァルジャンを追うジャベール警部さながらの執拗さでお絹さんと仲のよかった蝶々さんの身辺にもたびたび現れるのが、サイドストーリーの一つになっている。
この夫婦の物語は、舞妓春蝶となった蝶々さんよりダイナミックでいいかも。
・・・といった、切り口の多さが、小説らしい小説。
上下2巻だが、想像が膨らんで大河小説を読んでいるくらい旅できるし、この本を読んだ後に、次に読んでみたい本がたくさん出てくる。
お勧め度☆☆☆
長崎や蝶々夫人に郷愁を感じるなら必読☆☆☆☆
ところで、価値観としては、"男に騙されたと知り「誇りを守って自害する」くらいなら、立身出世して見返したら? ”とこの小説では、コレル夫人のように思う。
そもそも武士の誇りを持って守っていたら、芸妓にはなれないのでは? (だからこの話の中では舞妓:デビュー前のままでいきなり「長崎式結婚」してしまったことに問題があるのでは? )武士の誇りも芸妓の世界でやっていくのも両立させるなら、相当賢くてしたたかで、強運の持ち主でないと、早々に挫折するはずだよね、で、蝶々さんは「あまり運のよくない人」として描かれているのだから、そういう人がどうなるかというと、あっさり死ぬしかないのだろうかしら??? この時代では、ユリもお蝶も、苛酷で短い人生しか用意されなかったということなのか。
09/01/05: 沖で待つ 絲山秋子著
最終更新:2009-01-07 16:12:12
![]() | 沖で待つ 絲山 秋子 文藝春秋 2006-02-23 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
バブル期に総合職で就職した女の様相を表す小説といった、特に惹かれるテーマでもないものだった。
なんだかバブルの描写に対して、自分が「遅れてきた世代」といった気になってしまうからかも知れないし、「これからは輝かしく働けるのだ! 」という希望があったのは、高校生になる頃までだったし、選びたいような職が就職する時にはほとんど考えられなかったせいかもしれない、なんのせいかは分からないけれど、まぁ、興味がなかったことには変わりない。
ガツガツしている企業雇用者?
そんな悪いイメージはともかくも、たまたま読むことになった*1この作品、意外に面白かったのである。
「沖で待つ」は本書のタイトルになっているが、もう一つ「勤労感謝の日」という短編が前半に載っている。
どちらも著者履歴にあるような、企業でバリバリ働いているか、かつて働いていた女が主人公。「キャリアウーマン」という言葉に想起されるような、カツカツとヒールで歩くカッコウよさなんかじゃなく、実はその、なんとなく「独身男」と言われて一般に想定するような薄汚さが、この「独身女」にもあって、そういうやつれた中でもがいている様子が、微笑ましくも頼もしくもある。
生々しさが、いい。
「こんなことになるんじゃなかった」という自分でも呆れかえった様な行き詰まりにいる、ヒロインと呼ぶにはあくの強い「鳥飼恭子」。
擦れているような、やけっぱちのような、けれど奔放なようでいて少しも吹っ切れていない、泥のなかにいるのに、晴天を見ているような明るさを捨てられない。
作品は、「勤労感謝の日」一日の出来事。
長谷川さんという隣家の奥様に呼び止められ、無職中の恭子はお見合いをするはめになった。長谷川さんと母とは未亡人同士ということもあってか仲がよく・・・恭子の母は恭子の収入だけが頼り、長谷川さんは悠々自適の、という違いはあるが・・・おまけに恭子が事故に遭った時にお世話になってしまったという義理があった。
ところが、一流企業に勤務しているという触れ込みでやってきた男は、いきなりスリーサイズを聞くというとんでもないヤツ。読んでいるだけで気分が悪くなる。恭子は途中でぷいと家を出た。後輩の水谷を呼び出した。「オトコと明日から箱根に行く」という彼女と別れ際おもう。
箱根か。オトコがいるのはいい。自分で排泄をするから犬を飼うほど面倒じゃないし、いつでもセックスが出来る。面倒なのは別れるときくらいだ。
この前キスしたのはいつだろう。この前セックスした時だったろうか。思い出せない。確実なことは、この状況はキス一つじゃ何ともならないということだ。
何か釈然としない。何もかも釈然としない。
別れた後もまだ帰宅したくない時刻だったので、飲みに行く。
「お湯割りおかわり。トイレ」
毒々しい芳香剤の匂いの中でストッキングとパンツを下ろして、見ると生理がはじまっていた。汚れたところにトイレットペーパーを押し付けて、紙版画のように血が写ったペーパーを何のためだか一応見て、ちょっとため息をついて、ポーチの中に一個だけ入れてあるナプキンを汚れたパンツにあてた。中出しでもしれば生理は神様からの授かり物のようにありがたいが、何もない月はただ気持ちが悪くて、女って嫌だなと確認するだけだ。生理なんかなくても私は一生に何百回も女は嫌だと思うんだろうが。
汚してしまったパンツを忘れるためにお湯割りを飲んだ。酔いが心地よくなって来たのであたりを意味もなく見回す。
縄のれんの向こう側で、街は静まり返った。もう、タクシーだって大して通らない。長谷川さんも立ってない。虎の子一丁、懐に入れて帰ろう。母は不満を噛みしめて眠っただろう。明日は一悶着あるだろうが、マスターみたいに、「それでだめだったら、そのときさ」と、思えるかな、思いたい。
それは他人に言わないでしょう? 自覚してもこうまでつぶやいたりしないでしょう?
日記にだって書かないよ? ということを明け透けに言っちゃう。
女芸人のように、身を挺して書いてしまうんだなあ。
お勧め度☆☆
私としては、「沖で待つ」のような企業青春モノよりもずっと、「勤労感謝の日」のような命の生臭さがインパクトがあって、よかった。今さらの清々しさより、生々しさに軍配。
- 注1読書会用の本選び。『サウスバウンド』とこれを候補にしていた
09/01/03: 氷 アンナ・カヴァン著 山田和子訳
最終更新:2009-01-03 14:48:17
![]() | 氷 アンナ・カヴァン著 山田和子訳 バジリコ 2008-06-04 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
氷に包まれていく世界。
男は、かつて愛した少女を連れ戻しに行く。
果てない旅。
呼んでいる最中、この本を読んでいるときのような感覚に襲われた。
| エペペ カリンティ・フェレンツ著 池田雅之訳 恒文社 1978-12 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
アンナ・カヴァンという筆名の語調が気に入って読み始めた。
世界は氷につつまれていく・・・。逃げ出さなくては。
そんな世界の、ある国にいる男。
少女に再会できたものの、また見失う。
少女を探して行った先も氷に侵蝕されていく、司令・長官の国。
長官の下にいる囚われの少女。
少女は人形のようでいて、男を庇護者に感じて、それでいて意志も生命力も薄弱な、ようと知れないところがある。
追いかけて、追いかけて、男は少女を追いかけて行く。
その求め方は、ルイ・ブリュエル監督の「欲望のあいまいな対象」*1のようでさえある。
![]() | 欲望のあいまいな対象 [DVD] フェルナンド・レイ, キャロル・ブーケ, アンヘラ・モリーナ, ルイス・ブニュエル 東北新社 2001-01-30 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
男の少女の関係の顛末は、少女が男の下に暮らしたときむすぶ関係が、予め分かっていたかのような繰り返しとなり、少女が女にと一段上がった時には小気味よく、そうなると決まったことじゃんと分かっているようになってくれるのだが、誰かと誰かの関係がどうした、といった展開ではなく、妄想がそのまま事実になっているような、夢の原理で進む現実のような、とにかく、喩えかと思ったらいきなりそこにテレポートしているような超特急ストーリー。
少女の前に広がっているのは暗闇ではなく、天空を染めつくす果てしない焔の波、途方もない氷河の夢幻的な情景だった。(中略)世界は逃亡の不可能な酷寒の牢獄と化し、あらゆる生き物は、この樹々同様、まばゆい死の光輝を放つ壁の内側ですでに生命なき存在となっている。
少女は絶望的に四方を見まわした。どこも完全に巨大な氷の壁に閉ざされている。
インドリたちが近くにいるのがわかった。不安と絶望が消えたのも、あるいは彼らが近くにいるからこそだったのだろうか? 別世界からの希望のメッセージを受け取っているような感覚が強まっていった。暴力も悲惨もない世界、絶望というものが存在しない世界。私は何度と泣くその世界を夢想したものだ。地上の人生の何千倍もエキサイティングで壮大な生が生きられている世界。その世界の住人の一人が今、私のかたわらに立っている。彼は私にほほえみかけ、私の手に触れ、私の名を呼んだ。その顔は静謐で一片の偏りもなく、時を超えた知性をたたえ、善き意志にあふれ、いかなる装いとも無縁だった。
彼は時空間の幻覚について語った。過去と未来が結びつくことで、どちらも現在になりうる、そして、あらゆる時代に行けるようになる、と。私が望むなら、自分の世界に連れていってあげとうと言った。彼と、そして彼と同種の人たちはすでに、この惑星の終末と人類という種族の終焉を見ていた。人類は今、集合的な死への願望と自己破壊の衝動によって、この地上で死にかけている。ただ、生命そのものは終わらずにすむかもしれない。この地での生命は終わった。だが、別の地では生命は続き、大きく広がっている。その、より広範な生命に我々人類も加わることができる。我々がそれを選ぶならば。
私は理解しようと努力した。彼は人間だが、それ以上の存在とも言える。少なくとも私が今あるような意味での人間ではない。より高き叡智を、究極の心理と言うべきものを知る能力を持っている。そして、その特権を付与された世界の自由を私にも与えようと言っている。私の最も奥深い自己は、心からその世界を知りたいと願っていた。私は想像を超えた体験の興奮を感じた。人間が破壊し死に瀕しているこの世界から、新しい、永遠に生きつづける限りない可能性に満ちた、もう一つの世界の姿を捕らえたように思った。一瞬、その素晴らしい世界での、より高い次元の生を生きる能力を私自身持っていると思った。しかし、少女を、長官を、広がっていく氷を、抗争と殺戮のことを思った時、同時に私は、それがいかに遠く、私の力の及ばないところにある世界であるかを悟った。私はこの地上世界の一部だ。この惑星の出来事と人間に結びついており、そのつながりを断ち切ることはできない。私も自己の一部が最も欲していることをあきらめるのは心が引き裂かれる思いだった。だが、私は、自分の場所が死の宣告を下されたこの世界にあること、ここにとどまってその最期を見届けねばならないことを知っていた。
夢、幻覚、その他何であるにせよ、覚醒したのちも、その強烈な影響はいっこうに消え去らなかった。私にはこの体験が忘れられなかった。夢の顔にたたえられた超越的な知性と完全性を忘れることができなかった。私は大きな空白感、喪失感とともに取り残されていた。この上もなく貴重なものをこの手にしながら、みずからそれを投げ捨ててしまったような感覚だった。
今、自分がやっていることはどうでもいいように思えた。私は暴力に関係している。この行動様式を続けていくほかない。こうして、私はゲリラ戦が続いている本土に何とかたどり着き、いっさいに無頓着なまま、西側から金をもらっている傭兵の一員になった。
なぜ、私はこれほどまでに長い間、少女にやさしくするのを押しとどめてきたのだろう。それも今、もうほとんど手遅れと言っていい時になるまで。私たちの最終的な運命について刻一刻と接近しつつある氷の壁について、私は何も言わなかった。代わりに、氷は赤道に到達する前にその歩みを止めるだろう。赤道地帯のどこかに安全な場所を見つけられるだろうと言った。そんな可能性がわずかでもあると思っていたわけではなく、少女が信じたかどうかもわからなかった。ただ、終わりの時がいかなるものになろうとも、私たちが一緒にいることだけは確かだ。私にできるのは、せめて少女にとっての終わりを瞬時の、そして苦痛のないものにすることくらいしかない。
氷河期の凍てつく夜を突いて大型車を走らせながら、私はほとんど幸福と言っていい思いに満たされていた。長い間渇望しつづけて失った、あのもう一つの世界を惜しむ気持ちはなかった。私の世界は今、雪と氷に包まれて終わろうとしている。雪と凍り以外にはもう何も残されていない。人間の生命は終わった。地中深く何トンもの氷の下に埋葬された宇宙飛行士たち、みずからが作り出した災厄によって跡形もなく消し去られた科学者たち。私はこのうえなく愉快だった。なぜなら、私たち、ブリザードを突いて疾走している私たち二人は生きているのだから。
窓外の様子を見定めるのはますます困難になっていった。凍った雪の花はフロントガラスからぬぐい取られるそばから、いっそう厚い様々な模様を作り出し、やがて、その向こうには、降りしきる雪のほかにはなにも見えなくなってしまった。幻の鳥の群れのように、無の世界から無の世界へと果てしない飛翔を続ける、数限りない雪ひら。
世界はすでに終わりの時を迎えてしまったように思われた。それももうどうでもいいことだった。この車が私たちの世界になっていた。
1969年発表の、著者最後の作という。
なんだかまるで、現代的な映画にでもなりそうな映像が見えるではないか。
お勧め度☆☆
かつてのサンリオSF文庫の同訳者による25年ぶりの改訳とのこと。
でも・・・あまり訳はお上手ではないような。元の文章がきっと風変わりな濃密なものなので難しいのでしょうけれど、日本文を読んでいるのに、時々英語が残っているままのような、翻訳ではなく単なる訳文を読まされているようなことがあって、引っかかった。
ぜひ、原書に行こう!
- 注1その昔BFに強く勧められて観た、大嫌いな映画








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