10/03/10: 9日のうだうだ/《それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで》(宮澤賢治)
8日の帰路途上。こういうの夜眺めると結構怖いよなぁ、いくつになったって(^_^;。
寒い一日。ぴくりとも動きたくない。動きたくなくても腹は減るし、便意は催すしで、躰というのは不便なもんだと思うぞ。
講談社 (2010-02-10)
せめて南の海に思いを馳せるのぢゃ。
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信濃路からの帰路道すがら。東京スカイツリーの生えているあたりの浅草通り沿い、ここしばらくずっと工事中状態だ。こういうごちゃごちゃが地域にいろんな利益をもたらしてくれるのならいい。でもそうはうまくいかんのだろうなぁと思える話も多い。
地元墨田区も一大プロジェクトを起爆剤にと意気込む。この一帯、建物の老朽化が進み、ツリー見物客は「カネを落とす」場がなく、浅草に向かいがちだ。このため区は遊歩道整備で街を美化し、昭和の薫り漂う商店や物作りの伝統も振興に生かそうともくろむ。「忠臣蔵の吉良邸跡など歴史的資源が多い墨田区を、循環バスで回ってもらえれば」と担当職員。ツリー開業後の経済波及効果を年94億円と見込んでいる。
ツリーには大規模ショッピングモールみたようなのも併設される。たぶん、集まるヒトはそちらでたいがいの消費を間に合わせてしまうんぢゃないか。吉良邸なんてあなた両国でしょ。「昭和」だってそういつまでも売り物にならないんぢゃないかなぁ。もちろん、たとえば地元の若手が新たに商売を興すとすればチャンスなのかもしれない。喰い物屋なんかでユニークなの。その手の好みのあるヒトなら、ショッピングモールみたいな通俗を嫌うかもしれない。けれど、今の時期、若いヒトに商機をつかむだけの投資ができるかどうか。うーん。
「パンがカビないのは添加物が入っているから?」(シルフレイのふたり言) と長村洋一「『ヤマザキパンはなぜカビないか』論に見る一般人に対する騙し行為」(PDFファイル)を読みながら、うーん、幸い世事に疎いおかげで「なぜカビないか」を目にしていないのだけれど
(^_^;、たぶんこの水準のデマには日常的に騙されている危険って結構あるんぢゃないかと感じた。
僕たちが受け取るこの手の情報は、たいがいの場合ダイジェストものだ。「××パンがカビないのは防腐剤なり保存料なりのせいだぞ」といった話は、実際の書籍からさえ離れて流通することになる。たとえば、テレビのニュースであったり雑誌記事であったり。こうした情報はことごとくダイジェストにすぎない。そして、ほどほどの権威を経由した情報であれば、そいつをいちいち出所に遡って検証しようなどとは、僕たちはまず考えない。その程度の情報の一つ一つを疑い検証していたのではキリがないし、検証するだけの暇があればのんびり散歩するなり、本を読むなりしているほうが楽しいに決まってる。××パンの購入を控えて◯◯パンに換えればいいだけだもん、この程度の話なら、万が一その情報がガセであったとしても、被る損害もほとんどない。「身近に忍び寄る化学物質に警鐘を鳴らす『ファブリーズはいらない』」(livedoor ニュース) の末尾を見ると、『なぜカビないか』の書き手は、国立大学で化学を学んでさえいる。こうなると、普通の生活を送る普通のヒトであれば疑いを差し挟む必要があろうとは考えない。
こういう水準の「一般人に対する騙し行為」って、たぶん漠然と想像するよりも多いんだろうな。「にじいろ商品」(とらねこ日誌) で紹介されているようなパンフレット類が宣伝として機能しているのだって、いったんマクロビの類を一定の権威として受け入れてしまえばもうひっかかるヒトはじゃんじゃんひっかかることになるといった前提があればこそだろう。
日常的に受け取る情報がダイジェストであることが悪いわけではない。イチイチ一次資料が情報として流れていたって、そんなもん面倒臭くて話にならん。しかし、ダイジェスト的な情報に頼り続けるかぎり、そいつに日常的に騙されている危険は排除できない。まぁそんな具合だから、おバカな陰謀論が蔓延りもするのだろうか。何にせよ、僕たちの情報環境ってのは結構危ういところがあるもんだ、とこれまた書いてみれば、書くまでもない至極当然のこと、か。しかしなぁ。うーん。でもでも、このあたり、「わかりやすさ」問題とも絡んで来るところ、面倒臭いけれど考えておかなきゃいかんところなんだろうなぁ。ぶー。
夕刻、仕事。教え子くんのブログの書き方についてあれこれ。何というか親バカというのではなしに、教え子くんのブログの文章、冴えるときにはめちゃくちゃ冴えてる。でも、今の提示の仕方ではちゃんと評価してくれるヒトの目に届いていないかもよ、あーしてこーしてそーする必要があるんぢゃないか、というような話を少々。で、『マンガはなぜ面白いのか―その表現と文法』精読。残された時間で全部ってのは無理だから、ここはやはりコマ割りを扱った第9章から。
それにしても『なぜ面白いのか』は、今さらながらよく書けているなぁ。作品に内在する読みに求められるルールが、作品を生み出す時代と不可分なものであることを落とさずに語るというところ、扱う主題でのみ作品を読むのとも作品を社会から切り離して読むのとも異なる態度、そのへんの目配せ按配がこれだけ軽便な判型で手に入るということは、もっと大きく扱われていいことだよなぁ。
晩飯「信濃路」。かねてより懸案だった藤森照信『建築探偵の冒険〈東京篇〉』(ちくま文庫)、何はなくともまずは「看板建築」を扱った「犬も歩けば……」からぼそぼそ。いやしかし、登場するのはいずれも立派なものばかり。日常、僕なんかが目にするようなものは、書き手さんの「白目」にさえ止まっていないのかもなぁ。描かれる「看板建築」が立派であればあるほど、何だか切なくなってきちゃった。はれほれ。
関係ないが、ちょろっとググってみたら、日本語版『リーダーズ・ダイジェスト』復活の話もあったけど、昨年になって潰れたみたい。へぇー、全然知らんかったよぉ。
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Hubble Ultra Deep Field - Wikipedia, the free encyclopedia 参照。日本語版のほうは説明が、アニメなんかとは打って変わって簡潔にすぎて説明になっとらんぞい。ぶひぶひ。NASA - Hubble Digs Deeply, Toward Big Bang
のほうがいくらか読みやすいかな?
昨年の誕生日のエントリ「28日の万歩計/《何ともないが死ぬだろう》(長谷川時雨)」 でも引いた画像。ヒトの生き死にについて考えるとき、ぼんやりとこの画像が頭に浮かんでくる。宮澤賢治の《正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである》*1なんていう言葉と共に。賢治だって、まさかこんなに銀河がうぢゃうぢゃあるとは予想だにしていなかったろうなぁ。うーん。さらに、我々の宇宙以外にも宇宙があるなんぞという知見までヒトは手にしている。そんなことを、天文学とか物理学とかのど素人たる僕が考えても、まったぁく意味がないのだけれど、そういうことをリアルに想像しようとするとき、何だかわけのわからない解放感を味わうことができる。単なる現実逃避の生悟りに違いないんだろうとは思うものの、それでもこの実感ばかりは動かない。何なんだろうね、この気持ち良さ。
寒い一日。一日うだうだ。こんな天気ぢゃぁ銀河もアンドロメダもへったくれもございませんな。
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昨日の東京スカイツリー。雨が降ったり止んだりの冴えない天気だったのだけれど、ツリーの眺め、これはこれで大したもんなんぢゃないかしら。
えっと、お気づきの方もいらっしゃると思うんだけれど、「シスターの読書ノオト」 の新着エントリは、「与太」のトップページからも見られるようになってる。デザイン変更した際にそうしたんだけれど、永らく「のおと」の更新がなかったのでアナウンスする折を持たないまんまになってた。
今回のメスリーヌの、まだ書きかけなのだけれど、ちょっとシステムのあれこれが不明なのと503エラー続きで、結局エイやっ!と投稿されたとか(^_^;。というわけで、そのうち訂正が入るかも。
「ノオト」が「与太」から完全に分離されていたときには、「ノオト」エントリへのアクセスが少なすぎるように感じていたんだけれど、これで少しは増えてくれるかな。「ノオト」の書き手sister女史は某県で図書館の司書さんをなさっているご麗人。念のために申し添えておくと人妻でございます。うーん、残念無念\(^O^)/。
sister女史の個別エントリ表題をクリックすると旧来通りの「ノオト」ページに辿りつける。女史の過去エントリをお読みになりたい方は、そちら経由でどうぞ。
というわけで、「与太」トップを閲覧なさる際には、エントリのカテゴリー欄、著者名にご注意あれかし。
他にもここで書いてみたいという方、いらっしゃったらメイルででもご連絡くださいな。ここんところ、503エラーがむやみに多くて更新しづらい状態が続いているのがアレですけど、イチからご自身のブログを始めるより早く常連読者さんができるかも、であります。
早川書房 (2009-10-10)
あれこれじたばたするつもりが、体調芳しからず。買い物と晩飯以外、引き籠り。
昨日に続いて、夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか―その表現と文法』(NHKライブラリー)などぼそぼそ。
あぁ、と思い出したのが、コマをめぐる論考*1。以前に一度触れたことがあるような気もするのだけれど、10代半ばあたり、マンガのコマ割りのことを真面目に考えていた時期があったのだ。本書にも論じられるように、少年マンガと少女マンガの大きな違いの一つがこのコマ割り。コマ割りは、少年マンガでは時間の流れと場面の重要性を中心に、主としてストーリーを支える機能を担っているのに対して、少女マンガではそうした機能を逸脱し、まるでストーリーの時間の流れに淀みをもたらすものであるかのように振舞う。そこいらへんの自由というか解放感みたいなの、少女マンガのすごいところなんだよなぁ。ってなことを考えていたのだ。時代が進むにつれ、少女マンガのコマ割りはさらに過激に淀み始める。そこいらへんに至る言葉がうまく構成できなかったのだけれど、本書が出たときには、そこいらへんの基礎を固めるべき言葉がていねいに拾い上げられている様子に、ちっきしょーってな気分になったんだよなぁ。うー、10代の頃にこの本に出会えていたら、こんな気分にならずに済んだんだろうになぁ。
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