10/03/12: 11日のうだうだ/《空から、ひもが……》ぢゃなくて、
この鎖、一体何なのだろう? 果たして同じ機能を担っているのかどうか、陸橋にはこれと似ていると素人目には見えるヒモ状のものがしばしば備わっている。
これは大晦日に撮った浅草橋駅近く、JRの陸橋。両側に太いケーブルがある。
他にも何枚か似たようなあれこれを撮っているんだけれど、ちょいとどのディレクトリに放り込んだのやらわからんので省略。鎖だったりケーブルだったり、はたまた鉄のつっかえ棒みたいなのだったり、形状は複数ある。でも、つっかえ棒みたいに見えるものもふだんから橋を支えるに当たって力を発揮しているようには見えない。陸橋なら必ずついているというわけでもないようだし、新しいか古いかでついているついていないの別があるようでもない。
地震に襲われても橋が落ちないように、ということなのだろうか? それなら隅田川なんかに架かる橋にだって、こういうヒモ状の何がしかが目についても良さそうな気もする。橋の上のヤツはどうなってもいいが、橋が落ちるような事態が起こっても橋の下を通る者だけは何とか助けようというわけ? でもないだろうしなぁ。
さっさと調べて決着をつけてしまえばいいようなもんだけれど、これまた謎のまま頭の中に転がしておくというのが楽しかったりするのだなぁ。おバカでスミマセン。
「千の風になって」ほしいとは、だれに対してもついぞ思ったことはないし、なりたいとはなおのこと思わないんだけれど……
驚いてショックを受けるヒトの多そうな話。真偽のほどは僕にはわからない。率直に申し上げれば、「千の風になって」についてmedtoolzさん的な受け止め方*1をしていたし、音楽畑出身の男性作家さん一般にあんまりいい印象を持ったこともないので、実はさほどのショックはない。「いい話」市場みたいなものがあるかぎり、こういうことはこれからも起こるんだろうなぁ。うーん。
『1000の風』と『千の風になって』 1 | 南風椎の「森の日記」: http://blog.greetings.jp/?eid=98
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その他の日乗
おっとそろそろ春からの仕事、本格的に宣伝せんといかんな、と思いつつも、あれこれじたばた。
夕刻、鶯谷「信濃路」。相変わらず『建築探偵の冒険〈東京篇〉』などぼそぼそ。
登場する建築はどれも魅力的なのだけれど、やはりデラックスなヤツ限定というところなのかなぁ。もうそのへんはヒトの嗜好として避けがたいところなのかもしれない。
東京は、太田道灌が城を築き町を開いてから500年*2になるが、その間、人は入れ替り立ち替り、建物は焼けては建ち、建てては焼けてきた。〈変化〉だけが王様で、人も物も、使われてはボロボロになって跡もとどめずに消えていった。
その消えっぷりの良さを、住いにみてみよう。江戸の人口は武家と町人合わせておよそ150万人で、その人口の雨露をしのぐ建物はざざっと30万棟くらいと推測されるが、その内、江戸が終った後のこの100年にどれだけ持ちこたえたかというと、なんと一棟もない。八百八町の商家も長屋も、旗本八万騎の武家屋敷も、住いという住いはきれいさっぱり消えてしまった。何十万棟もあれば、放っておいても町のはずれに10や20はゴミみたいに残ってしまうのに、東京のこの100年の近代化は、路次の奥も屋敷の隅ものがさずゾーキンがけしてしまった。このきちょうめんさは、他の都市にくらべると奇跡といってもいいくらいだ。
江戸・東京の500年を一目で見通すと、まるで、人も建物も都市ぐるみ電気洗濯機〈うずしお〉の中に投げ込まれ、ブクブク泡を立てながら回っているようだ。ひと回しした後パンパンとミズを切ると、人も家もしつこい汚れはすっかりきれいになって、まっさらの土地が青空にヒラヒラ……
pp.186-7
そんな中、皇居だけが残っちゃったと続くくだり。皇居のことはさておき、デラックスなヤツ、目新しいヤツ、便利なヤツにヒトの嗜好が向く限り、東京がヨーロッパの都市みたような重厚な歴史を持つことはないんだろうなぁ。それはそれで悪いことだとは思わない。でも、でもなぁ、というところが少しばかり蟠らないでもない。
子どもたちが、マンガやポップスみたいなポップカルチャーに日常的に触れていながら、そのもっとも自分に身近なあれこれを言葉にするような教育を受けていないのと同じく、大人だって身近なあれこれを言葉にできないでいる。ありふれたものを言葉にしない文化ってのは、結局変なスノビズムにまみれた言葉を繁茂させるばかりだ、なんてことだってありそうな気がしたりしなかったり。
何でもカンでも残せばよろしいなんぞとは思わない。でもありふれたものをいとおしく思う心があれば、それを言葉にするって営みも出てくる。でもって、〈うずしお〉から免れるあれこれだって少しくらいは出てくるかも。そういうことはあってもバチは当たんないんぢゃないのかなぁ。うーん。
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10/03/11: 10日のうだうだ/No.100の訳語は?
靖国通り沿いの公衆便所。タイルには、どうも世界各国語で「公衆便所」ないしは「便所」の呼称がレリーフにされてるみたい。しかし、あれこれ眺めてみると、ホントかしらと思えるものもあったりする。ホントなのかなぁ。うーん。
「No.100」ってのはどこの国でのトイレの呼称なんだろう?
あれこれ所用などじたばた。所用で新宿に出たついでに靖国通りから水道橋まで、ひさしぶりに歩く。
晩飯、鶯谷「信濃路」。
『影響力の武器 実践編』読了。続けて『建築探偵の冒険〈東京篇〉』をぼそぼそ。『武器』、まとめは何だかご挨拶だなぁ。「倫理と影響力」あたり、どの程度読者に影響を及ぼし得るものか。何となくとってつけたって感じなきにしもあらず。なきゃないでアレだけれど。
誠信書房 (2009-06-09)
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10/03/10: 9日のうだうだ/《それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで》(宮澤賢治)
8日の帰路途上。こういうの夜眺めると結構怖いよなぁ、いくつになったって(^_^;。
寒い一日。ぴくりとも動きたくない。動きたくなくても腹は減るし、便意は催すしで、躰というのは不便なもんだと思うぞ。
講談社 (2010-02-10)
せめて南の海に思いを馳せるのぢゃ。
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信濃路からの帰路道すがら。東京スカイツリーの生えているあたりの浅草通り沿い、ここしばらくずっと工事中状態だ。こういうごちゃごちゃが地域にいろんな利益をもたらしてくれるのならいい。でもそうはうまくいかんのだろうなぁと思える話も多い。
地元墨田区も一大プロジェクトを起爆剤にと意気込む。この一帯、建物の老朽化が進み、ツリー見物客は「カネを落とす」場がなく、浅草に向かいがちだ。このため区は遊歩道整備で街を美化し、昭和の薫り漂う商店や物作りの伝統も振興に生かそうともくろむ。「忠臣蔵の吉良邸跡など歴史的資源が多い墨田区を、循環バスで回ってもらえれば」と担当職員。ツリー開業後の経済波及効果を年94億円と見込んでいる。
ツリーには大規模ショッピングモールみたようなのも併設される。たぶん、集まるヒトはそちらでたいがいの消費を間に合わせてしまうんぢゃないか。吉良邸なんてあなた両国でしょ。「昭和」だってそういつまでも売り物にならないんぢゃないかなぁ。もちろん、たとえば地元の若手が新たに商売を興すとすればチャンスなのかもしれない。喰い物屋なんかでユニークなの。その手の好みのあるヒトなら、ショッピングモールみたいな通俗を嫌うかもしれない。けれど、今の時期、若いヒトに商機をつかむだけの投資ができるかどうか。うーん。
「パンがカビないのは添加物が入っているから?」(シルフレイのふたり言) と長村洋一「『ヤマザキパンはなぜカビないか』論に見る一般人に対する騙し行為」(PDFファイル)を読みながら、うーん、幸い世事に疎いおかげで「なぜカビないか」を目にしていないのだけれど
(^_^;、たぶんこの水準のデマには日常的に騙されている危険って結構あるんぢゃないかと感じた。
僕たちが受け取るこの手の情報は、たいがいの場合ダイジェストものだ。「××パンがカビないのは防腐剤なり保存料なりのせいだぞ」といった話は、実際の書籍からさえ離れて流通することになる。たとえば、テレビのニュースであったり雑誌記事であったり。こうした情報はことごとくダイジェストにすぎない。そして、ほどほどの権威を経由した情報であれば、そいつをいちいち出所に遡って検証しようなどとは、僕たちはまず考えない。その程度の情報の一つ一つを疑い検証していたのではキリがないし、検証するだけの暇があればのんびり散歩するなり、本を読むなりしているほうが楽しいに決まってる。××パンの購入を控えて◯◯パンに換えればいいだけだもん、この程度の話なら、万が一その情報がガセであったとしても、被る損害もほとんどない。「身近に忍び寄る化学物質に警鐘を鳴らす『ファブリーズはいらない』」(livedoor ニュース) の末尾を見ると、『なぜカビないか』の書き手は、国立大学で化学を学んでさえいる。こうなると、普通の生活を送る普通のヒトであれば疑いを差し挟む必要があろうとは考えない。
こういう水準の「一般人に対する騙し行為」って、たぶん漠然と想像するよりも多いんだろうな。「にじいろ商品」(とらねこ日誌) で紹介されているようなパンフレット類が宣伝として機能しているのだって、いったんマクロビの類を一定の権威として受け入れてしまえばもうひっかかるヒトはじゃんじゃんひっかかることになるといった前提があればこそだろう。
日常的に受け取る情報がダイジェストであることが悪いわけではない。イチイチ一次資料が情報として流れていたって、そんなもん面倒臭くて話にならん。しかし、ダイジェスト的な情報に頼り続けるかぎり、そいつに日常的に騙されている危険は排除できない。まぁそんな具合だから、おバカな陰謀論が蔓延りもするのだろうか。何にせよ、僕たちの情報環境ってのは結構危ういところがあるもんだ、とこれまた書いてみれば、書くまでもない至極当然のこと、か。しかしなぁ。うーん。でもでも、このあたり、「わかりやすさ」問題とも絡んで来るところ、面倒臭いけれど考えておかなきゃいかんところなんだろうなぁ。ぶー。
夕刻、仕事。教え子くんのブログの書き方についてあれこれ。何というか親バカというのではなしに、教え子くんのブログの文章、冴えるときにはめちゃくちゃ冴えてる。でも、今の提示の仕方ではちゃんと評価してくれるヒトの目に届いていないかもよ、あーしてこーしてそーする必要があるんぢゃないか、というような話を少々。で、『マンガはなぜ面白いのか―その表現と文法』精読。残された時間で全部ってのは無理だから、ここはやはりコマ割りを扱った第9章から。
それにしても『なぜ面白いのか』は、今さらながらよく書けているなぁ。作品に内在する読みに求められるルールが、作品を生み出す時代と不可分なものであることを落とさずに語るというところ、扱う主題でのみ作品を読むのとも作品を社会から切り離して読むのとも異なる態度、そのへんの目配せ按配がこれだけ軽便な判型で手に入るということは、もっと大きく扱われていいことだよなぁ。
晩飯「信濃路」。かねてより懸案だった藤森照信『建築探偵の冒険〈東京篇〉』(ちくま文庫)、何はなくともまずは「看板建築」を扱った「犬も歩けば……」からぼそぼそ。いやしかし、登場するのはいずれも立派なものばかり。日常、僕なんかが目にするようなものは、書き手さんの「白目」にさえ止まっていないのかもなぁ。描かれる「看板建築」が立派であればあるほど、何だか切なくなってきちゃった。はれほれ。
関係ないが、ちょろっとググってみたら、日本語版『リーダーズ・ダイジェスト』復活の話もあったけど、昨年になって潰れたみたい。へぇー、全然知らんかったよぉ。
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