10 February 2009

うまれてきたんだよ 内田麟太郎・文 味戸ケイコ・絵

うまれてきたんだよ (エルくらぶ)うまれてきたんだよ (エルくらぶ)
内田 麟太郎・文

解放出版社 2008-10-06


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


こわいよ〜。
こわい絵本だよね〜。

絵本は子どもだけのものじゃない! 大人こそ絵本が必要! とは柳田邦男氏の運動だけれど、たしかにこれはいくら味戸ケイコがファンシータッチで絵を描こうとも、子ども向けではない。子どもに必要はないし分からないはず。そうであってほしい。


パステル画で、幼な子が座ってうつむいている姿が描かれている表紙。
「うまれてきたんだよ」と。
うまれてきたのはあのとき。 それは、いつ? どんなふうに? なぜ、うつむいている? といった不安を呼び起こすような場面の表紙画が右上にある装丁。


1ページめ。
希望のような「うまれてきた」のページ。
「ぼく うまれたんだって。」

やさしくやわらかい光を虹色に浴びているような、誕生。

次のページ。
「さんねんでしんだんだって」。

いきなり、表紙と同じタイプの絵になる。 陰のなかにいる幼な子。

子どもが語り手になることで、子どもが主役であるよりさらに衝撃的だ。
そして、もう死んでいる人が語り手であることに、ここからの遠さを感じる。
彼岸に逝ってしまった幼な子。
その子がまだ今もそこにいるかのように語りかける。
語りかけてくる。

次のページ。
「いつも なぐられていたんだって。」

ことばのの下には、後ろ向きのぐったりとした子ども。か細い手足。
右側には、立ち上がることもできそうにない弱々しさが影に向かって倒れそうにやっと両手をついて、すわっている。

次のページ。
「おなかを すかし、 とじこめられて いたんだって。
ひもじくて かみを たべていたんだって。」


・・・この暗闇につづく陰のなかで、ずっとこの子は生きていたんだ と思う。
でも、「〜していたんだって」の口調からは、この子はもうここにはいないと明らかにされている。
このまま、何ページか虐げられた生の様子が子どもの口から語られ続ける。闇のそばで生きていた短い生が語られている。

そして一方で、最初のページのような、まばゆい光のなかで生を受け愛を浴びて生きているもう一人の幼ない女の子の姿のページが挟まれる。
両親や姉と語らい合う姿。満ち足りた笑顔。あたたかく抱きしめられている至福の瞬間。
 「あれは なに? なにを しているの? 」
 「あれは なんなの?」  
 、とこちら側から見ているのは男の子。

愛を受けることを覚えないまま、見ているだけ。
見て、何か知りたい、けれどそれは何か分からないという哀れ。
なのに何か分からないそれを、求めている。

こんなに、怖くて苦しげで痛々しいページをめくったことがない。


最後のページ。
うまれたときに、たとえ人間が祝福してくれなかったとしても、
「かぜが そのとき いってくれたんだって。 」

と、生まれた瞬間、外気に触れた一人の子どもの誕生を見せている。
一人の子どもを迎えたこちらの世界で、私たちは「ようこそ」と言えるの?
という、強くてこわくて鋭い問いが向けられている。

この絵本のページを平気でめくれる人はいないでしょうよ。

お勧め度☆☆☆☆
よくぞ出してくれましたの絵本ではあります。
が、一点だけ。
味戸ケイコのファンシーな絵はかわいらし過ぎる感じもする。
もっと毒でも愛でも圧倒的な力があってもいい気もする。
満ち足りている女の子の方の画につけるストーリーなら合うのだろう・・・例えば雨降りの日のお迎えだとか、初めてのお遣いだとか、妹が生まれたとか。

暗い方の画も、とてもこわく感じるし、弱っていくつらい子どもの感じが分かる。なのに、ちょっと違和感があるのは「きれい」だからかしらん。「いとしさ」や「いつくしみ」といった丸みがありすぎているのかも。
たとえば(そんな病気があるのか知らないが)先天的な病気で感情を感じられず笑えない子どもと、虐げられた結果として表情のこわばった子どもの違いが、画面からは分からない。積極的に虐げられた訳ではなくても、人間に触れ合う機会が極端に少なくて無表情になる子どもであってもいいような画面に感じるのだ、臭くないというか、汚くないというか。(そこまで描いてしまったら、絵本としての美から遠ざかり、読まれないかもという不安があったのかもしれないけれど)
味戸さんの絵*1は嫌いじゃないし、やさしくてかわいらしくていつくしむような表現にはぴったりだし、幼い女の子の描くようなやさしいラインを基調にした絵の最上級にいると思うけれどね。
  • 注1佐々木丸美のカバーも手がけているじゃあありませんか! あの、北の館のひめ物語、いつくしみ願望の最上級ですわ

20 December 2008

ビロードのうさぎ マージェリィ・W・ビアンコ作 酒井駒子抄訳・絵

ビロードのうさぎビロードのうさぎ
酒井 駒子

ブロンズ新社 2007-04


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


酒井駒子つづきで、絵本を探り中。
こちらは、原作が他にいるそうなので、絵なんだけどね。
ぜひ、クリスマスプレゼントに! *1のおすすめ。

「ビロードのうさぎ」は、ある男の子の数多くあるおもちゃのなかの一つだった。
その男の子は「ぼうや」といつも表現されていて、うさぎの方からの視点で見上げられている。
気まぐれで、けれど愛情もある、人間という種族の、その中でいちばん「ビロードのうさぎ」に近い存在。
にんげんの「ぼうや」。その親や、ナナというお手伝いやお医者様は、もっと遠いこわい存在。
抗いがたいような力を持っている。それは、子どもである「ぼうや」の視点から(ということは絵本を読む、「ぼうや」と同世代の読者から)見た大人たちの力や立場の強さともみえる。

この無名の「ぼうや」と「ビロードのうさぎ」の出会いは、かけがえのない永遠のものといった分かりやすい大切さとは、少し違う。
子どもの成長の過程で忘れられてしまうもの。けれど、自覚せずに憶えているようなこと。
ちょっと、『時をかける少女』の大人になった彼女が薬学部の実験室ですれ違ったときに感じたなつかしさにも似ている・・・でも、睦みの時期にそうと気づかずにいつも一緒にいるのがぼうやのころの特権なのでしょう。

酒井駒子らしい「うさぎ」の絵。
愛されているときのうさぎ。
手放されてしまいそうな不安な表情。
そばにいたいという一心で隠れている様子が少しだけ見える姿から想像できる。

そして「ビロードの」と付けられているうさぎ。
このうさぎが、ただの「うさぎ」に出会ったときの違和感、いや、むしろ劣等感。自分がほんとうのうさぎと「ぼうや」には言われているよといいながらほんとうではない背後がバレないかとひやりとするとき。その前に「ぼうや」には「ほんとう」と言われたときの至福の喜びと対照をなしている。

話で涙を絞られるのではなくて、話(文)があって、そこに絵があって、絵を見ながら言葉を読み取って、それで絵のなかに読み手の思い入れを映し出してしまう。この表情は寂しいのだろうだとか、それを「サビシイ」という一語だけではなくこういう状況でこういう関係でといった物語の上においてみて、印象を想像を膨らませていって、読み手が付加していくような、そんな読み方が、酒井駒子さんの絵本には特に、ありありとできてしまうのだ。


↓今ならブロンズ新社のHPから、『ビロードのうさぎ』の壁紙プレゼントキャンペーン中(〜12/25)
http://www.bronze.co.jp/campaign-present/

そうそう。この「ビロードのうさぎ」。クリスマスプレゼントとして「ぼうや」の手元にやってきました。是非とも、この『ビロードのうさぎ』絵本も、プレゼントに、どなたかこの物語を解する方にプレゼントしてみませんか? (私もほしい)


お勧め度☆☆☆☆☆
全体の出来といえば、妖精さんが不要だから*2、「ゆきがやんだら」にくらべると惜しいとおもう。
でも、
所有が愛情になるこんなうさぎを描かれたら、文句なしに、この世で大切な初めてのものに出会えたことを感じてしまう。
この本自体が、そういう大切さになるかもしれないとおもう。
子どものときに、まだ多感さをどんなときにもうしなわずにいる頃に、出会ってほしいものだ。
愛情を込めて子ども時代に出会えるものへの讃歌なのです。
  • 注1クリスマスじゃなくてもいいけれど、近いし
  • 注2妖精はなくても、涙だけでいいんじゃないの? と思いません?
    原作があるので酒井駒子に責任はあまりないんでしょうが、ここで妖精が出てくると、「子ども部屋には妖精が棲んでいる」が別のストーリーになってしまって、軸が二つあるような気がしてしまう。

24 September 2008

バスにのって 荒井良二作・絵

バスにのってバスにのって
荒井 良二

偕成社 1992-05


Amazonで詳しく見る
by G-Tools



ひろいひろい野原のまんなか。野原というより土ばかり。
アメリカ大陸のような、どこまでも土、空。ヤシの実のような植物に極彩色の鳥、
メキシカンのような帽子の人物。

そんななかにポツンとある停車場の、小さな屋根の下に、バックパッカーの青年が
ひとり。
バスを待っている。

バスを待って、バスを待って、バスをまって、、、
やってくるのは、トラックや馬や自転車に乗った人ばかり。
ラジオを聴いて、トントンパットン トンパットン 
まだ バスは きません

険しそうな風土なのに、のんびりおだやかな時間の経過を楽観しているような、バ
スを待っている人物に、だんだんこちら(絵本を読んでいる私)があせり出す。


(バスは来ないんじゃなかろうか バスに乗れるのだろうか こんなにのんきにし
ていていいの)

(あ、とうとう夜が来た 停車場で眠っちゃったよ、、、)




荒井良二は、『きょうというひ』『さるのせんせいとへびのかんごふさん』で注目
していた絵本作家さん。色使いの明るさと筆遣いの大胆さ(筆を使わないことも多
い)、それから言葉のたのしさに、わっと解放されるような面白さをいつも感じて
しまう。
たまたま原画展があったので、お散歩がてらに観に行ったのだ。
残念ながらワークショップの日には行けなかったが、原画が絵本の通りに並べら
れ、キャプションの代わりに絵本のコトバが横に貼られていた。
ので、コトバを追いかけながら絵本の順に絵を観ていけるのだった。

ただ、改めて絵本を見てみると、絵本の編集って苦心しているんだな、と分かる。
絵本のどこに文字を埋め込むのか、見開きの片面が絵でもう片面が文字、または絵
の中に文字を入れてしまう、絵だけのページ、絵を部分的に入れるetc...
それによって、読んでいるとき見ているときの印象が全く異なり、違う本にもなっ
てしまう。
色彩は、もちろん原画の方が繊細で良かったが、絵とコトバの組み合わせが「絵
本」の形になって始めて読めるものになるという、出版物ならではのよさを実感し
た。絵も、手元の絵本になったからこそ、身近に詳細まで気にして見られる面白さ
がある。特に荒井良二の場合、愉快さとでも言えばいいのか。



で、『バスにのって』のつづき。


荒野の真ん中でポツンと待つ人が、一日中待つなか、
バスではないものばかりがやってきて、とうとう夜になって、
そして、翌日。
とうとうバスが来たのですねえ。 ああよかった。
(とはならない展開に、ひたすら待っていた私は「ええっ! 」となる)
なんとバスは満員だったの。

バスは 砂けむりを あげて
いってしまいました


・・・この結末は、是非、絵本をご覧あれ。(やれやれ、が笑いを誘う)


お勧め度☆☆☆☆
評価するというより、個人的に好きなのかも。
私はこの会場の絵本では、これが一番でした。

荒井良二の、太陽の描き方が好きかなぁ(太陽は良く出てくるモチーフ)
この絵本でも、「あさに なりました」シーンがあるの。

26 June 2008

くまとやまねこ 湯本香樹実・文 酒井駒子・絵

くまとやまねこくまとやまねこ
湯本香樹実 酒井駒子

河出書房新社 2008-04-17


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


このところ、紹介してきた酒井駒子が絵を、そしていつも大切に読んできた湯本香樹実が文を、という最高の組み合わせでできている絵本。

絵は、濃い目の鉛筆画なんだろうか、黒々としている。
徐々にものがたりが進むとと、部分的に色が一刷け入って、それは話にうまく合っているので、そこが色彩を帯びていることが、視覚にも訴えられるし、ストーリー上もいっそう印象的になる。

両作家ともに、「いのちのやりとり」とでもいうべきものを扱ってきたような、出会うべくして出会ったようなコラボ、どちらもこれまでの世界観を譲りません。調和というよりせめぎ合っているような絵本かなぁと感じてしまう。
おだやかなやわらかな言葉やタッチなのに、やさしいだけではない火花のような高度な仕上がりとでも言いましょうか。なのに、鎮けさ、静寂、語らいあいはつながっているのです。

タイトルは「くまとやまねこ」ですが、最初、くましか出てきません。
「きのうの朝よりあすの朝より、きょうの朝がすき」と言っていた、大切な小鳥が、「ずっと一緒にきょうの朝をすごしたい」と思い合っていた小鳥が、亡くなってしまうのです。
くまは、その小鳥のなきがらを、きれいな小箱に入れ花を飾り、持ち歩きます。
くまの知り合いたちは、心配そうに見て、「つらいだろうけど忘れなきゃ」と言います。
くまは、真っ暗な部屋に閉じこもり、時を忘れます。

そうして、時の経ったのちに、やまねこに出会ったくま。
最後にやまねこの持っているタンバリンのことについて、くまが尋ねなかったことに、そんなに簡単なことじゃない「忘れる」ことをより強く感じます。そこがいいんじゃないかと。

きっと「きょうの朝」がまた、やってきたことでしょう。
でも、忘れることとは全然違うのだと。
忘れなよと、困って心配していた動物たちも、それは思いやりはあったことだろうと思う、けれど、そういう、忘れるということではやってこない朝もあるのだ、ということなのですよ、と。

「大人になる」ってことは、何かが自分でできるようになることでもあるけれど、本当に年を取るよさは、こういう物語が分かっていくことにあるんじゃないかな、とひしと感じました。


お勧め度☆☆☆☆
派手さは全くないけれど、長い時間をかけてじんわりと分かって受け止めていきたいような本です。
おまけ:やはりサカイコマコ。うさぎ出したわね〜(好きでしょ)←彼女の作品はうさぎ擬人化が頻出です。今回も、とても辛そうな心配そうなうさぎが森の仲間の役で登場します。

05 May 2008

ぼく、おへんじは? ヤニコフスキ・エーヴァ文 レーベル・ラースロー絵 いせ きょうこ訳

ぼく、おへんじは?ぼく、おへんじは?
ヤニコフスキ・エーヴァ レーベル・ラースロー いせ きょうこ

ポプラ社 2008-02


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


大人たちの一方的な思い込みには、迷惑しているんだよな。

上手にコトバで説明できないけれど、コドモにとっては、そう思う場面が数多くあるものだ。
まぁ、なんてスカした者なんでしょう、オトナ。

「いったい どうしたの なぜ ないているの」

そんなこと きかれても
うまく おへんじ できないよ
だって ぼくは よく
わるいことをしたあと なくけれど
いいこにしてても なみだが
でること あるんだよ
だれも しんじちゃ くれないけれど


いいたいことは いろいろあるけれど
せつめいするのって むずかしい

パパは ぼくに よくきくよ  「なにか かわったことは?」

でもね なにがかわったことで なにが かわったことでないか ぼくには よくわからない

ぼくの かわったことって
ともだちが
あたらしいじてんしゃを
かったとか
あかいくるまが あおいくるまを おいぬいたとか

かえりみち となりのこに
あったこととか


だけど パパが しりたいのは
ぼくが がっこうで せんせいに あてられたこととか しゅくだいは すんだとか
なんで かえりが おそくなったのかってことなんだ
だから 「なにか かわったことは?」 って きかれたら 「べつに」って へんじする


シャルルおじさんは おおきくなったら なにになりたいかなんて きかないよ
それより ぼくが たんけんかになったら
どんなところを たんけんしたいかって きくよ


シャルルおじさんは がっこうが すきか なんて きかないよ
それより ぼくが どんなほんをよみたいかって きくよ



少し似ているけれど、コドモというより思春期の少女と、その親との違和感。
第三者的な叔父さん・とおるちゃんと少女みのりの関係が、コドモーオトナの結びつかなさの解けそうな緩衝地帯を果たしているところ。
などが、この絵本に似ているように感じた。

黄色い目の魚黄色い目の魚
佐藤 多佳子

新潮社 2002-10


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


絵本のラストは、案外、前向きな子どもの発言で終わっていて、「教育的」にも感じる。
「黄色い目の魚」は、一つ試練をくぐりぬけた者が持つ自由さがある。

お勧め度☆☆
子どもにもいいけれど、子どもに迷惑をかけているかもしれない、子ども周辺の人にもいいかも知れない。
どう、オトナのコトバを、コドモに切り拓くかということのお手本にもなる。

「こどもの日」ゆえに載せてみました。

05 May 2008

よにもふしぎな本をたべるおとこのこのはなし  オリヴァー・ジェファーズ作  三辺律子訳

よにもふしぎな本をたべるおとこのこのはなし (にいるぶっくす)よにもふしぎな本をたべるおとこのこのはなし (にいるぶっくす)
オリヴァー・ジェファーズ 三辺 律子

ヴィレッジブックス 2007-10
売り上げランキング : 360610

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


ドラえもんの「暗記パン」でしたっけ、パンに内容を転写して食べると、食べた内容が記憶される(けれど消化されると忘れてしまう)。

このおとこのこは、本それ自体をたべてしまう。
食べると、食べた分だけ頭に入る(残りはお腹にも入る)。
おいしいんだろうなぁ・・・。

ついつい、どんどんもの知りになっていくことが楽しくなったのか、ヘンリーくんは食べ過ぎた。食べ過ぎて頭の中がごちゃごちゃになった。お腹も壊した。(やっぱり原因は消化するひまがなかったせいなんだって! )

ラストは、ほんがすきなおとこのこには、けっこううれしい結末かもしれない。
そういうのもいいね、って。

そして、ほんの少し、ユーモアだってのこしている。
食べるのもいいけれどね。でも、食べるのもいいよ、ということ。

お勧め度☆☆☆
絵本ならではの、コラージュがたのしい。
もじ と 絵 と ものがたり が散在しているのにつながっている。
活字部分の文字も、原著ではどういう文字(タイプ)になっているのか知りたい。
「コラージュ」自体、私にはあまりなじんでいないものなのだけれど、ふしぎなコラボレーションができるものだ・・・。

28 April 2008

ベッキーのたんじょうび ターシャ・チューダー作

ベッキーのたんじょうびベッキーのたんじょうび
ターシャ・テューダー

メディアファクトリー 2007-07-18


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


たぶんどこかのアメリカの田舎町。農村地帯、自然の土臭さが生きているところ。
ベッキーの一日は、平凡そうでどこにもありそうで、でも考えつく日常の中で、すべてがいい風に運んでくれる、特別な日。

「あなたは一日をどう過ごしたい? 」
「終日好きに過ごせて満足いっぱいになるって、どんな送り方なの? 」
の実践をしてみたら、こうなってしまった・・・というような絵本。

絵本というには、漢字も多く、文章もながいのだけれど、まあ、絵を見ていてあきないから、
読まなくてもいいのかも知れない。

そして、最後に書かれている著者の言葉がなによりいい。
・・・子ども時代に過ごした宝物のような一日が、こころに満たされて、後の人生を支えてくれる・・・といったようなこと。

ターシャ・チューダーの数多く描いた絵本のうち、まだ私の読んでいるものは少ないのだけれど、彼女のかたくななような生き方の中にある豊かさは、きっといつか、彼女を十分に満たした少女時代があったからなんだろう。黄金の少女時代を行き続ける強さありなん。
田舎のよさを発揮している彼女の絵本性にも着目したい。

ぜひとも、子どもには(そしてどこかに子ども時代を抱えている大人にも、老人にも)こんな誕生日をプレゼントしたいものだ。




思うとおりに歩めばいいのよ―ターシャ・テューダーの言葉 (ターシャ・テューダーの言葉)思うとおりに歩めばいいのよ―ターシャ・テューダーの言葉 (ターシャ・テューダーの言葉)
ターシャ テューダー Tasha Tudor Richard W. Brown

メディアファクトリー 2002-10


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


20世紀ナチュラリストっぽい彼女の三部作の一つ。
私は、そもそも、これが出会いだった。
絵本でもあとがきに惹かれたように、創作物としての絵本とじっくりつきあう前に、コトバでうまく背中を押してくれるような、「背筋の伸びたおばあちゃん的応援」。

あとは『今がいちばんいい時よ』『楽しみは創り出せるものよ』だが、どう考えても、『思うとおりに歩めばいいのよ』が一番のコトバだ、私にはそうだった。
数年前に出版されて読んではいたけれど、たまたま友人がバースデープレゼントにくれたもの。
プレゼントに本、は上げて満足するものであって、必ずしも当たりになることは少ないものなのだけれども、これは「自分では手にとっても買っていない本」で、なんとも嬉しいヒットだった。

29 March 2008

ゆきがやんだら 酒井駒子作

ゆきがやんだら (学研おはなし絵本)ゆきがやんだら (学研おはなし絵本)
酒井 駒子

学習研究社 2005-12


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


ふゆ。ゆき。
家の外はふり積むゆき。
ゆきにわくわくして出かけたくならない?

ゆき!

そんな子どもの期待が窓辺から見る景色に描かれている。
子どもと母のいる場所は、絵本なら、なんとなく野原の中にある一軒家だと思いそうなのに、
ここでは、3階建て団地の一角で、3階の部屋。

通りを眺められる距離。

ゆき!

に駆け出さない。「ゆきがやんだら」表に出てあそんでいい、と母親は言う。
ゆきの光景はどこまでもつづく野原ではなく、建物の周辺しかみえない灰色。
子どもも母もうさぎ。(これは酒井駒子に共通している描き方なのかな)

灰色の建物に映る窓辺のゆきは、暗い光景にも見えるけれど、窓辺と外へ出たときの開放感も、身辺はいつも切り取られて自分にやってくる、ということを正確に伝えているようだ。

パパはなぜとおくでおしごとなんだろう?
えんがやすみって、幼稚園?
なぜ、ゆきがふっていると、「かぜひいちゃう」でそとであそべないの?

なんだか、どこか、状況が違う気がするけれど、日本のお話じゃないの?
(酒井駒子って、日本名だけど)
ちょっと、異質な感じがするのに、これはこれで、こんな世界なのかなとおもうしかない。
だれも、どこも、思っている通りの符号のような光景で過ごしているわけではないから。

くらいのか、すがすがしいのかわからないが、やさしいようなつめたいようなこの描写が、
これはこれで、案外気に入っているのです。

お勧め度☆☆☆

31 December 2007

黒グルミのからのなかに

黒グルミのからのなかに黒グルミのからのなかに
ミュリエル・マンゴー カルメン・セゴヴィア とき ありえ

西村書店 2007-08


Amazonで詳しく見る
by G-Tools



じきに死神がやってくる、とベッドから出てこなかった朝、かあさんが言います。
「そんなことないさ、薬を買ってくるよ!」と出かけた男の子が浜辺を通ると黒いマントの死神に会いました。
男の子・ポールはカマを奪い取り、何度も枝でたたくと小さくなった死神をクルミのなかに閉じ込めました。
家に帰ると、かあさんは元気になっていました。
めでたしめでたし。

…とはいかないのが、この話の面白いところ。

かあさんは死神がいなくて死を免れたけれど、それは全ての死を遠ざけることとなった。
卵は割れない。魚も捕れない。何も食べられない。

自然の流れを戻すために、彼がクルミを探し出し、閉じ込めた死神を取り出そうとする時…それは大好きなかあさんの死が訪れることを意味するのだが…手のなかの殻をそっとにぎりつぶした時のせつない覚悟ったら!ない。

死神にカマを返した後のお情けは、気に入らないが、死は生に満ちた時にやってくるのだという仕立てがとても気に入った。

スコットランド民話が原作。

お勧め度☆☆☆☆
絵本ですが、絵本にしては長めなので、読んであげたらいいかも知れません。
小学生でも読みごたえがありますし、(絵本=未就学児)ではなく読まれて欲しいです。

「死」を終わり、悲しい、さよなら、避けたいもの…などと扱わず、自然の摂理のなかに埋め込んでいるところが、いいんです。

「お前は十分ひとりでやっていけるよ」とかあさんは言うけれど、否定したくなるのも当然。ただ「死」を止めてしまうのもエゴイスティックなことなのだ、と分かる流れが物語になっているのです。
(だからこそ、このラストは誤魔化してる気がするのですが)

私自身には『ナゲキバト』『でかい月だな』に続く「生」の物語です。
どちらも、自分にとって意味が含まれすぎていて、ここでは紹介できていません。友人知人にはずいぶんと勧めています。

29 July 2007

よあけ ユーリー・シュルヴィッツ作・画

よあけよあけ
ユリー・シュルヴィッツ 瀬田 貞二

福音館書店 1977-06


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


「庭」(ベッティナ・スティーテンクロン作)が、ある家の朝から夜までを描写していたならば、
この「よあけ」は、夜から朝までの湖畔を描いている。

湖畔・・・ではなく、湖畔を描写して「よあけ」というものを絵本で見せた、といってもいい。
先ほどの「庭」が人の手の入ったものならば、「よあけ」は、自然そのもののなかによあけがやってくる、畏怖めいたものを感じさえする。

一瞬の風。一抹の不安、あ。ざわざわとしている。

台風の近づいてくるときに、ざわざわとするあの気持ちに似ている。
今ではそんなときばかり、自然の訪れるのを、気配として感じ待ってしまうけれど、
湖畔でよあけに臨むときには、台風予測よりもずっと、身近に、息をひそめるようにして、
刻一刻と、「そのとき」まで、わずかな気配にも耳をそばだて、五感をつかって、身をひそめていそうだ。

お勧め度☆☆☆☆

「庭」より更に偉大なり、一冊。