意味による癒し ロゴセラピー入門 W.E.フランクル
春秋社 (2004-01-21)
ある状態に置かれたときに、その状態は変わることがなくとも、心の持ちようやその情況の捉え方としての「態度」によって、自分の置かれている情況が変わってくるということを、実践してみたのが、「ロゴセラピー」。
ユダヤ人収容所に入れられ、そこでも「人生の意味」を見失うことなく息抜き、生還し、92歳まで生き抜いた心理学者。
収容所に送られたときに、書き上げた論文を胸に隠し持っていたが、それを取り上げられてしまった。が、もういちどそれを書き直し、発表することを目標に生き延びたということ。
同じ収容所でも、殺される前に絶望感から自ら鉄条網に飛び込んでいく人を目の当たりにした。なぜ同じ状況で異なった行動を取るのか、現実は変わらなくても態度は変えられるということ?
ある老婦人が、瀕死のときに、孫子を残して去っていかなければならないことが辛くてなりませんという。
「では、あなたが残す人がないとしたらどうでしょう?」
「そういう人も充実した人生を送れるとは思いますが、私に誰もいないとしたら寂しいですね、失くして辛いものがあるほど充実しているのですね、私は!」
といった例がある。
状況が変わらなくても捕らえようはあるというのだ。
これはあくまでも、「意味がある」と思える前提を必要としている(だから、ニーチェのようなニヒリスト空虚感は除外していると断ってはいる)。
「ロゴセラピー」。へえ、こんなものがあったのかと思って読んだあとで、
フランクルとは、あの『夜と霧』を書いた人なのだと、気づいた。(何度も図書館の書架でシゴト中に棚に戻していたあの本。未読だったけれど、読んでみなければ。)
この訳書出版は2004年。10年も経たないことなのだ。
元の本は1964年刊。なのに、訳本は装丁がイマドキっぽいやさしい感じの「癒し」カラー。(そういえば「癒し」という言葉が流行ったのも2004年くらいでしたっけか?)
著者は、フロイドなどから学んだ後に、これまでの「無意識を探り出して精神疾患の原因を探り出す」という既存の手法ではなく、この「ロゴセラピー」という第三の学派を提唱した。
p.22
人生の各々の状況は人間への問いかけ(チャレンジ)を意味し、解決すべき問題を彼に提出しています。ですから、ここでは人生の意味の問いはまったく逆転することになります。結局のところ、人間は自分の人生の意味が何であるかと問うべきではなく、むしろ、問われているのは自分であるということを認識しなければなりません。一言でいえば、各々の人間が人生から問われているのです。そして各人は、自分自身の人生に対して責任を担うことによってのみ人生に応答することができるのです。こうして、ロゴセラピーは人間の実存の真の本質を責任性のうちに見ることになります。
p.25
このことによって私が強調したいのは、真の人生の意味は世界のうちに発見されるべきものであって、あたかも閉じられたシステムであるかのように、自分の内部に、自分自身の心(サイキ)の中に見出されるものではない、ということなのです。その証拠には、人間存在の真の目的は自己実現と呼ばれるもののうちには発見されえないからです。人間存在の本質は、自己実現ではなく、自己超越性にあります。自己実現は目的にすることはできません。その理由は簡単です。人間が自己実現を追い求めれば追い求めるほど、それを取り逃がしてしまうからです。それと反対に、人間は、自分の人生の意味の充足に自らを委ねれば委ねるほど、その程度に応じてのみ、自分自身を実現するのです。換言すれば、自己実現は、もしそれが目的そのものにされると達成されず、ただ自己超越の副次的結果としてのみ達成されるものなのです。
世界は人間的自己の単なる表現のように見なされてはなりません。ましてや世界は人間の自己実現のための単なる道具であるとか、単なる手段であるなどと考えてはなりません。このような世界観はいずれも、世界の無価値化になってしまいます。
以上のことから、人生の意味は絶えず変化していること、しかしそれは決してなくならないことが明らかになりました。この人生の意味は、ロゴセラピーによれば、次の三つの異なった道において発見されることができます。(1)行為の遂行によって、(2)価値の体験によって、(3)苦悩によって。
p.42 ロゴセラピーの技法
「予期不安」
この恐怖の特徴は、それがまさに患者の恐れているその当の恐怖を作り出すということにあります。・・・(中略)この意味において「希望は思想の父」という諺をもじって「恐怖は失敗の母」と言い換えることもできるでしょう。
皮肉なことに、恐怖が人の恐れているその当に恐怖を引き起こすのと同様に、無理な志向は、人が無理に望んでいるその当の願望を不可能にします。私が「過剰志向」と名づけているこの過度な志向は、性神経症の場合に特に顕著に現れてきます。・・・(中略)
ロゴセラピーは「逆説志向」と呼ばれる技法を開発していますが、この技法は次の二重の事実、すなわち、恐怖は人が恐れているその当のものを実際に生じさせてしまうこと、および過剰志向は人が望んでいるその当のことを不可能にしてしまうこと、この二重の事実に基礎を置いています。この逆説志向では、恐怖症の患者は、たとえごく当座のことではあっても、彼が恐れているまさにその当のことを志向するように促されるのです。
p.146
私たちの精神療法の実践の根底には---顕在的にせよ潜在的にせよ---何らかの人間観が存在しているからです。さまざまな精神療法の学派によって提示されている人間像は互いに根本的に異なっており、相互に矛盾しています。そして、これらの矛盾も、今述べましたように、より高い次元に進まない限り克服されえないのです。・・・(中略)
そしてこれらの資質のうち、精神療法にもっとも密接に関連するものが二つあります。すなわちそれは、人間の自己距離化と自己超越の能力です。前者の自己距離化の能力は、外界の状況から自分を引き離し、その状況に対して態度をとる能力として定義できるでしょう、しかも、人間は、世界から自分を引き離すだけではなく、自分自身に対しても距離を取ることができます。そして、逆説志向というロゴセラピーの技法において動員されるのが、まさにこの能力なのです。・・・(中略)
では次に、第二の人間の能力である自己超越能力に話題を移しましょう。自己超越とは、人間という存在がつねに自分以外の他の何ものかに、より適切に言えば、自分以外の何かある物やある者に、つまり充たされるべき意味や、愛しつつ出会う人間に向かい、それへと方向づけられているという事実を意味しています。そして、人間は、こうした自己超越をまっとうする程度においてのみ、真に人間的になり、自己を実現しているのです。
それまでの、または同時代の精神療法に対して考えられたロゴセラピーならではの文脈が随所にあるのだけれど、精神療法というからには、患者や対象者がいるはず。
ロゴセラピーの対象者は、ある程度恵まれた社会的地位や経済的余裕がある人や、福祉社会によって生活が安定している人が、それにもかかわらず「生きる意味」というものを失くしている(見失っている)ことによる不幸な状態や、罹患状態になっていることを受けているのではないかと思う。
なので、そういう状況での「意味ある人生」を求める方法として、まず有効なのではないかな? いっときの「自分探し」や「自己実現」キーワードにはまってしまった人へのアンチテーゼとしても。
というのは、(まだこの人の著書を読み込んでいるわけでもなんでもないが)強制収容所という極限状態から生き残ろうとする意味ある人生を生き抜いてきた著者の様子はそれは感嘆と賞賛で受け入れたいけれども、意味を発見する手段も対象も見当たらない状況や、現実的に抱えている問題を解決したいがそのためにできることがなかったり構造的に無理だったりする状況を抱えている場合、「態度」一つで人生に意味を見出したところで超えがたい苦悩はつきまとうでしょうし、それは誤った「意味」によってヘンに支えられると(勝手なプラス思考のようなもので現実を受難のような偽りとして認識すると)、ワタシの側の考えよう、捉えようの問題に帰してしまい、アナタの側の問題が原因としてあったとしてもそれに対して提起したり拒否したりする猶予を失わせてしまいそうだから。
たとえば自殺は意味の喪失によるものであったとしても、「否」という意思表示としてできる手段ではないか? とも考えられる。
(自殺や人生といった大局においてだけでなく)状況を受け入れることで、生き延びていく方法もすばらしいけれども、拒否する自由も残されてほしいとは思う。
・・・と、は、言っても、フランクルのこの本は、他人の読書を見て面白そうで読んでしまうという図書館ならではのきっかけで読み始めた、そのへんの啓発書よりはずっと有意義な読書に導いてくれた面白い体験だったのでした。
さて、このロゴセラピー、いかがでしょうか?
第五章 ロゴセラピーの有効性 (E.S.ルーカス著)
ロゴセラピーがひとつの精神療法である以上、そこでは患者が自分の病気や悩みに対して取る態度がつねに中心的な重要性をもっている。けれども臨床という文脈を離れて考えれば、通常の生活条件への適応ということが不可欠なものになってくる。正常な人々の生活の場は、いつも次のような両極を体験させるように構成されている。つまり、彼らは多くの要素(例えば健康、仕事の目標、家庭の幸せ、財産など)に関しては「成功の側」にいながら、他の要素に関しては人生の「失敗の側」にいるということである。非常に肯定的で、静止ね異性上も非常に健康的な大度というものは、たとえその人の生活が(もっとも広い意味で)成功であっても不成功であっても同等の価値を有しているに違いない。成功に対する肯定的な態度とはどのようなものであろうか。自分の成功は、それが悩んでいる人々の助けになり、その人たちの悩みを和らげるのに役立つ限りでのみ成功といえるのである。「不成功」の人生がフランクルの言う英雄的な態度価値によって意味で満たされるのだとすれば、それと同じく「成功」した人生もこの人間的な態度によって意味と目的とを得るのである。
ルーカス(フランクルの弟子)によれば、「意味」を見失いがちな年齢は20歳台と60歳台以上、そしてロゴセラピー理論の重要な仮説が正しいと証明されなかった3つの点は(これ以外はすべて正しいとされたと言っている)
(1)絶望もしくは絶望への覚悟ができていることは意味充足の「反対」ではなかった。困難な生活状況の中での無関心の方が意味空虚感に表現であるとテスト結果は示している。
(2)地方に住む人々のほうが文明における技術や高度工業化が実存的空虚感の増加につながっているとはいえない。
(3)まったく意外なことだったが、意味充足のためには、自分の到達しようとする人生の目標にどんな犠牲を払ってもしがみつこうとするよりも、新しい状況につねに順応していける心理的な可塑性や柔軟性の方が役に立つということがわかった。
お勧め度☆☆☆☆
原本は1冊なので姉妹本もあわせ読むべし。
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