Saturday, November 27 2010
シングルマン
posted @ 15:13 in [ 映画 ]
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Relativity Med. Sdtk (2009-12-22)
映画「シングルマン」
ストーリーはよく分からず、つい何度か寝てしまったけれど、良かった映画です。
ぜひ、途切れたシーンはもう一度再現したい(観に行けばよいのです)。
(私だけかもしれないけれど)、音楽だけはちょっと映画に勝ちすぎたかなという気がして、悪いというのではなく、映像が主で映画が効果音というのではない関係。一体となって映画にするというのでも、映画がPVになるというのでもなく、観ているうちに映画から意識が離れて、音楽だけを聴いてしまっているというふうに、やたらと気になった。
プログラムを観たら、あの「メトロポリス」着色版の音楽担当者だったというではないですか!
そりゃあ気になります。(すごい映画+音楽だった! 世界観が出ているというより、世界が創られているような。)
映画を観る前後に、映画評も観てみたけれど、「ゲイがパートナーを失って絶望して、最後の一日と決めた日に希望を感じた物語」とあった。それは、ちょっと紹介の仕方が違うんじゃないのかな? と思う。
たしかに「最後の一日」あたりに反応して、私もこの映画を観る気になったのだとは思うのだけれど。
ゲイがどうのという、映画の外からの感想よりも、ゲイ的視点で切り取ったり語ったりした世界は、こうストレートに見えるんだな〜という
ことも分かるので、そっち側を楽しんでみたらよいのに。そこだけをいうなら、女が女を見るより、男が女を見るより、男が男を見る視点がいいなあと感じた。
主人公の男性のスーツやシャツ姿が、この上なく似合っていてすてきだったなあ。
相手に異性を感じない関係って、ゲイであろうとなかろうと、男女間でこういう振られ方するよねえ、とか。
とりとめなく、あれこれと感じて楽しくなってしまう映画なのでした。
ラスト。男の子は魅力的だったけれど、そんなことは希望にならないから、やっぱりあれでお終いでいいんじゃないのかな。
精神的なことを追った映画だけど、小洒落ていて(大洒落ているかも)、でもスタイリッシュというよりは古典的で、思い出しながら夢の中に入るようなところが寝てしまったのかも。心地いい2時間でした。
にしても、音楽が気になるなあ・・・。
p.s.
邦題つけてあげようよ。
Saturday, March 20 2010
意味による癒し ロゴセラピー入門 W.E.フランクル
posted @ 16:17 in [ 哲学 ]
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Viktor E. Frankl, 山田 邦男
春秋社 (2004-01-21)
ある状態に置かれたときに、その状態は変わることがなくとも、心の持ちようやその情況の捉え方としての「態度」によって、自分の置かれている情況が変わってくるということを、実践してみたのが、「ロゴセラピー」。
ユダヤ人収容所に入れられ、そこでも「人生の意味」を見失うことなく息抜き、生還し、92歳まで生き抜いた心理学者。
収容所に送られたときに、書き上げた論文を胸に隠し持っていたが、それを取り上げられてしまった。が、もういちどそれを書き直し、発表することを目標に生き延びたということ。
同じ収容所でも、殺される前に絶望感から自ら鉄条網に飛び込んでいく人を目の当たりにした。なぜ同じ状況で異なった行動を取るのか、現実は変わらなくても態度は変えられるということ?
ある老婦人が、瀕死のときに、孫子を残して去っていかなければならないことが辛くてなりませんという。
「では、あなたが残す人がないとしたらどうでしょう?」
「そういう人も充実した人生を送れるとは思いますが、私に誰もいないとしたら寂しいですね、失くして辛いものがあるほど充実しているのですね、私は!」
といった例がある。
状況が変わらなくても捕らえようはあるというのだ。
これはあくまでも、「意味がある」と思える前提を必要としている(だから、ニーチェのようなニヒリスト空虚感は除外していると断ってはいる)。
「ロゴセラピー」。へえ、こんなものがあったのかと思って読んだあとで、
フランクルとは、あの『夜と霧』を書いた人なのだと、気づいた。(何度も図書館の書架でシゴト中に棚に戻していたあの本。未読だったけれど、読んでみなければ。)
この訳書出版は2004年。10年も経たないことなのだ。
元の本は1964年刊。なのに、訳本は装丁がイマドキっぽいやさしい感じの「癒し」カラー。(そういえば「癒し」という言葉が流行ったのも2004年くらいでしたっけか?)
著者は、フロイドなどから学んだ後に、これまでの「無意識を探り出して精神疾患の原因を探り出す」という既存の手法ではなく、この「ロゴセラピー」という第三の学派を提唱した。
p.22
人生の各々の状況は人間への問いかけ(チャレンジ)を意味し、解決すべき問題を彼に提出しています。ですから、ここでは人生の意味の問いはまったく逆転することになります。結局のところ、人間は自分の人生の意味が何であるかと問うべきではなく、むしろ、問われているのは自分であるということを認識しなければなりません。一言でいえば、各々の人間が人生から問われているのです。そして各人は、自分自身の人生に対して責任を担うことによってのみ人生に応答することができるのです。こうして、ロゴセラピーは人間の実存の真の本質を責任性のうちに見ることになります。
p.25
このことによって私が強調したいのは、真の人生の意味は世界のうちに発見されるべきものであって、あたかも閉じられたシステムであるかのように、自分の内部に、自分自身の心(サイキ)の中に見出されるものではない、ということなのです。その証拠には、人間存在の真の目的は自己実現と呼ばれるもののうちには発見されえないからです。人間存在の本質は、自己実現ではなく、自己超越性にあります。自己実現は目的にすることはできません。その理由は簡単です。人間が自己実現を追い求めれば追い求めるほど、それを取り逃がしてしまうからです。それと反対に、人間は、自分の人生の意味の充足に自らを委ねれば委ねるほど、その程度に応じてのみ、自分自身を実現するのです。換言すれば、自己実現は、もしそれが目的そのものにされると達成されず、ただ自己超越の副次的結果としてのみ達成されるものなのです。
世界は人間的自己の単なる表現のように見なされてはなりません。ましてや世界は人間の自己実現のための単なる道具であるとか、単なる手段であるなどと考えてはなりません。このような世界観はいずれも、世界の無価値化になってしまいます。
以上のことから、人生の意味は絶えず変化していること、しかしそれは決してなくならないことが明らかになりました。この人生の意味は、ロゴセラピーによれば、次の三つの異なった道において発見されることができます。(1)行為の遂行によって、(2)価値の体験によって、(3)苦悩によって。
p.42 ロゴセラピーの技法
「予期不安」
この恐怖の特徴は、それがまさに患者の恐れているその当の恐怖を作り出すということにあります。・・・(中略)この意味において「希望は思想の父」という諺をもじって「恐怖は失敗の母」と言い換えることもできるでしょう。
皮肉なことに、恐怖が人の恐れているその当に恐怖を引き起こすのと同様に、無理な志向は、人が無理に望んでいるその当の願望を不可能にします。私が「過剰志向」と名づけているこの過度な志向は、性神経症の場合に特に顕著に現れてきます。・・・(中略)
ロゴセラピーは「逆説志向」と呼ばれる技法を開発していますが、この技法は次の二重の事実、すなわち、恐怖は人が恐れているその当のものを実際に生じさせてしまうこと、および過剰志向は人が望んでいるその当のことを不可能にしてしまうこと、この二重の事実に基礎を置いています。この逆説志向では、恐怖症の患者は、たとえごく当座のことではあっても、彼が恐れているまさにその当のことを志向するように促されるのです。
p.146
私たちの精神療法の実践の根底には---顕在的にせよ潜在的にせよ---何らかの人間観が存在しているからです。さまざまな精神療法の学派によって提示されている人間像は互いに根本的に異なっており、相互に矛盾しています。そして、これらの矛盾も、今述べましたように、より高い次元に進まない限り克服されえないのです。・・・(中略)
そしてこれらの資質のうち、精神療法にもっとも密接に関連するものが二つあります。すなわちそれは、人間の自己距離化と自己超越の能力です。前者の自己距離化の能力は、外界の状況から自分を引き離し、その状況に対して態度をとる能力として定義できるでしょう、しかも、人間は、世界から自分を引き離すだけではなく、自分自身に対しても距離を取ることができます。そして、逆説志向というロゴセラピーの技法において動員されるのが、まさにこの能力なのです。・・・(中略)
では次に、第二の人間の能力である自己超越能力に話題を移しましょう。自己超越とは、人間という存在がつねに自分以外の他の何ものかに、より適切に言えば、自分以外の何かある物やある者に、つまり充たされるべき意味や、愛しつつ出会う人間に向かい、それへと方向づけられているという事実を意味しています。そして、人間は、こうした自己超越をまっとうする程度においてのみ、真に人間的になり、自己を実現しているのです。
それまでの、または同時代の精神療法に対して考えられたロゴセラピーならではの文脈が随所にあるのだけれど、精神療法というからには、患者や対象者がいるはず。
ロゴセラピーの対象者は、ある程度恵まれた社会的地位や経済的余裕がある人や、福祉社会によって生活が安定している人が、それにもかかわらず「生きる意味」というものを失くしている(見失っている)ことによる不幸な状態や、罹患状態になっていることを受けているのではないかと思う。
なので、そういう状況での「意味ある人生」を求める方法として、まず有効なのではないかな? いっときの「自分探し」や「自己実現」キーワードにはまってしまった人へのアンチテーゼとしても。
というのは、(まだこの人の著書を読み込んでいるわけでもなんでもないが)強制収容所という極限状態から生き残ろうとする意味ある人生を生き抜いてきた著者の様子はそれは感嘆と賞賛で受け入れたいけれども、意味を発見する手段も対象も見当たらない状況や、現実的に抱えている問題を解決したいがそのためにできることがなかったり構造的に無理だったりする状況を抱えている場合、「態度」一つで人生に意味を見出したところで超えがたい苦悩はつきまとうでしょうし、それは誤った「意味」によってヘンに支えられると(勝手なプラス思考のようなもので現実を受難のような偽りとして認識すると)、ワタシの側の考えよう、捉えようの問題に帰してしまい、アナタの側の問題が原因としてあったとしてもそれに対して提起したり拒否したりする猶予を失わせてしまいそうだから。
たとえば自殺は意味の喪失によるものであったとしても、「否」という意思表示としてできる手段ではないか? とも考えられる。
(自殺や人生といった大局においてだけでなく)状況を受け入れることで、生き延びていく方法もすばらしいけれども、拒否する自由も残されてほしいとは思う。
・・・と、は、言っても、フランクルのこの本は、他人の読書を見て面白そうで読んでしまうという図書館ならではのきっかけで読み始めた、そのへんの啓発書よりはずっと有意義な読書に導いてくれた面白い体験だったのでした。
さて、このロゴセラピー、いかがでしょうか?
第五章 ロゴセラピーの有効性 (E.S.ルーカス著)
ロゴセラピーがひとつの精神療法である以上、そこでは患者が自分の病気や悩みに対して取る態度がつねに中心的な重要性をもっている。けれども臨床という文脈を離れて考えれば、通常の生活条件への適応ということが不可欠なものになってくる。正常な人々の生活の場は、いつも次のような両極を体験させるように構成されている。つまり、彼らは多くの要素(例えば健康、仕事の目標、家庭の幸せ、財産など)に関しては「成功の側」にいながら、他の要素に関しては人生の「失敗の側」にいるということである。非常に肯定的で、静止ね異性上も非常に健康的な大度というものは、たとえその人の生活が(もっとも広い意味で)成功であっても不成功であっても同等の価値を有しているに違いない。成功に対する肯定的な態度とはどのようなものであろうか。自分の成功は、それが悩んでいる人々の助けになり、その人たちの悩みを和らげるのに役立つ限りでのみ成功といえるのである。「不成功」の人生がフランクルの言う英雄的な態度価値によって意味で満たされるのだとすれば、それと同じく「成功」した人生もこの人間的な態度によって意味と目的とを得るのである。
ルーカス(フランクルの弟子)によれば、「意味」を見失いがちな年齢は20歳台と60歳台以上、そしてロゴセラピー理論の重要な仮説が正しいと証明されなかった3つの点は(これ以外はすべて正しいとされたと言っている)
(1)絶望もしくは絶望への覚悟ができていることは意味充足の「反対」ではなかった。困難な生活状況の中での無関心の方が意味空虚感に表現であるとテスト結果は示している。
(2)地方に住む人々のほうが文明における技術や高度工業化が実存的空虚感の増加につながっているとはいえない。
(3)まったく意外なことだったが、意味充足のためには、自分の到達しようとする人生の目標にどんな犠牲を払ってもしがみつこうとするよりも、新しい状況につねに順応していける心理的な可塑性や柔軟性の方が役に立つということがわかった。
お勧め度☆☆☆☆
原本は1冊なので姉妹本もあわせ読むべし。
Saturday, March 06 2010
ジャック・メスリーヌ 世界を震撼させた犯罪王 ジャック・メスリーヌ著
posted @ 15:37 in [ 映画 ]
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ジャック・メスリーヌ, 間庭恭人
早川書房 (2009-10-10)
「ジャック・メスリーヌ」の映画を観て、直後にこの本をラッキーにも見かけたので読んでみた。
映画を観たのも本を読んだのも、ラッキーとしかいいようがない。
この映画を観てからつい映画館に足を運ぶという習慣やそんな気になることすら戻ってきた。
そして、このブログを更新しようとする気さえ。
ジャック・メスリーヌとは、フランスとカナダで活躍した(暗躍?)盗人である。
そんな、ルパンなみの盗賊が自伝を書いて発表しているという。
映画の原作になったというこの本があることすら驚いたが、(「世紀の大泥棒の映画を観に行ったら、その原作がタイトルになっている泥棒その人が書いたものだった」から)その上、あらすじにしてしまえば映画のこの部分とほぼ変わらなくても、「あったこと」以上に「どうあったか」が分かるのが、本のよさではないか。
映画は、俳優がなんといってもチャーミング。服や年代ものの車など、時代が現れているのも見どころ。描かれる人物にも映像にも目をそらせない磁場がある。
歴史的なその時代に、別の角度から見たらこうなっていたということが、暗黒街、裏社会からも見て取れるのがいい。
けれども、そんなお題目はどうでもよくて、もともとのジャック・メスリーヌの人物も魅力的で、犯罪や規範を超えた生き様に圧倒される。映画なら「勝手にしやがれ」はこの人からつくられたんじゃないの? というくらい。
p.83
そこで社会を攻撃し、社会がおれの中のものを破壊したその代価を払わせることにしたのだ。社会の掟を否定し、群集について行くことを拒否すれば、遅かれ早かれそれが非常に高くつくであろうことは、承知のうえだ。おれは、はみ出し者の生活を送ればどんな危険がふりかかってくるかを冷静に考え、そのうえで前もってその代価を払うことを覚悟したのだ。社会的に自殺したのと同じことだった。おそらく、幸福についてのおれの考えはまちがっているのだろう。おれは知らなかった・・・・・・収入の少ししかない人がこのわずかばかりのものを自分の労働によって稼ぎ、それでいて幸福になれるということ、心が豊かであるためには必ずしも金が必要でないこと、時間がなくても束の間の余暇を利用すれば生活をはりのあるものにできること、家庭を持ち、自分のつくった子供たちが生きて行くのを見ることが健康な真の幸福の基礎であるということ、生活をその問題に正面から立ち向かうことこそ勇気というものだということ、そういうことがおれには分かっていなかったのだ。おれに分かっていたのは、今の仕事をやっていたら一生うだつが上がらないということだった。
この「そこで」の前にあるものは、二十歳に狩り出されていった戦場のことだった。戦争に送り出した社会が戦争で受けた傷に触れることなく社会に復帰させようとしてもできないということ。もちろん、この主人公は、だから社会が悪くて自分はこうなったのだと居直っているだけではない。犯罪者の立場で生きていったらそれなりのツケは払わされると分かっていて、自分で選んでいる。けれど、その一因に知らんぷりをしているのもまた違うのだと言っているのではなかろうか。
社会は自由の名においておれに人を殺す権利---おれのまったく知らない人たち、戦争でもなかったら友達になったかもしれない人たちを殺す権利---を与えた。
彼の言っている「社会」が何を指すか、どういうもののことを言っているのかは、私には分からないけれど、(「周囲」でも「国家」でもあるが、含まれているだけで、それ自体を指し示しているものではないように思う)社会構造とでも言えばいいのか?
社会は犯罪者を作りうる構造をしているのだから、犯罪者個人の責任で犯罪が起こるのでもなく、犯罪は犯罪者を罰したり抹殺することでなくなるわけでも、それによってキレイな社会が成立するわけでもないのだ、ということなのかな。ただし自分はその立場にいる以上、リスクは引き受けるけど、仕打ちを一方的には甘んじて受けない。という宣言書なのかもしれない、この半自伝は。
刑務所に服役している最中にタイプを取り寄せてこの著書を書いたメスリーヌ。もちろん、つかまることもあるが、ちゃんと(?)脱獄だって繰り返す。地で行くアルセーヌ・ルパンのようだ。(華やかな犯罪と、ちょっとした憂い、大胆不敵な行動に、もちろん運命の女も絡んでくる。彼を追う刑事さえもいる。ないのは予告状だけ、いや、脱獄予告はして、そして果たしたか!)
刑務所にだって、文句はつけたい。
これでは昔の徒刑場の方がましなくらいだった。スペインでさえ囚人の扱いははるかによく、昼間はずっと中庭に出ていられた。しかしフランスはあらゆる面で抑圧の国だ。この国の刑務所は、特定の人間を社会から隔離し、彼らに過ちを償わせるための場所ではない。現在の形の刑務所の目的はただ一つ、運悪くこの門をくぐってきた者を破壊してしまうことにあるのだ。何年も何年も前から刑務所の改革が発表されてきた・・・・・。しかし政府の約束は欺瞞だ。おれは騙されはしなかった。フランスの社会は刑務所の真実を知りたがらないようにできている。囚人がそこで自殺しようと、大怪我をしようと、麻薬中毒になろうと、あるいは心理的重圧で頭がおかしくなろうと、社会は知っちゃいない。壁は高く、絶望のうめきも憎悪の叫びも社会には聞こえない。社会にとって大事なのは、自分の良心に恥じるところがないようにしておくことだけなのだ。社会そのものはまた最も卑劣なやり方で間接的に報復という罪を犯しているのだということを知るには、刑務所の生活の実態をみなければならない。
そういうことのすべてを、おれはずっと前から自分の眼で見てきた。だからおれは、自分のこういう生き方を選んだことを少しも後悔しないようになった。おれは刑務所なんかに決して破壊されないと分かっていた。なぜならおれは戦う男、内なる不正義と戦う男だった。・・・・・たとえ投獄されても、おれの精神は娑婆にいたときと少しも変わってはいなかった。
そして、いまおれは待っている・・・・・。
おれの判決なんかづだっていうんだ・・・・・。そんなのはおれが求め選んだ生き方の結果に過ぎない。(中略)おれの真実がどんなに凄惨なものであろうと、おれは直視することをおそれてはいない。おれは人生のどの時点から今のような人間になってしまったのだろう。それはおれにも分からない。おれの心にどんな亀裂が生じて、この世の生を粗末にするようになったのだろう。誰かがそのわけを見つけてくれるだろうか。おれにはどんな言い訳も思いつかない。おれは社会を裁きたいのではない。自分を裁くだけで充分だ。人は時として自分の最良の審判者なのだ。自由の門が自分には永久に閉ざされていることは分かっている。死んだ方がましなのだ・・・・・が、それでも生の意欲があるのだ。
子供のころから、おれは死と暴力に眼を見張ってきた。大人たちが自由の名の下にやった戦争が、心にずしりとこたえた。
成人するとおれは自分でそいつをやった。別の戦争、別の暴力である。国家の吹奏のもとに行われる集団殺戮は讃美される。だが実際に経験した戦争、話に聞かされた戦争、身にしみた戦争はおれに生を尊重することを教えてはくれなかった。おれはラ・マルセイエーズの吹奏のもとに手に武器を持たされた。そしてこの手が武器を好きになった。おれは暴力を教えられ、そして暴力が好きになった。
おれが生まれたその日以来、世界じゅうで人びとは、自分の行為を正当化するために高く掲げている理想の名において、たがいに集団虐殺を犯し、殺し合い、裏切り合い、欺き合っている・・・・・。そこでだ、いま判事たち、告発者たちがおれを前にして生命の尊重を説いてもおれはなんとも思わないのだ。なぜなら、人間はおたがいにとってオオカミだからだ。
お勧め☆☆☆☆☆
映画も2本立てで5時間くらいあったが、これが大当たりでございます。ぜひとも観てほしい。リバイバル上映してほしい。
原作を読んでも筆致によって、人間の存在というものに圧倒されたけれど、ジャック・メスリーヌ氏に負けず俳優さんが魅力的で、「そのときどうしたか」以上の「そのときどうふるまったか」が見て取れる映像でした。すばらしい☆☆☆☆☆
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ワーナー・ホーム・ビデオ (2010-04-21)
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Monday, April 27 2009
死刑 森達也著
posted @ 22:32 in [ ノンフィクション ]
素直な人だなぁ、と著者を想像した。
戦略的に小洒落たエッセイを書くどこかの美人サンなんかよりも、はるかに無防備で、隙だらけで、こんな著書を世に出して怖くないのかしら? と心配になってしまう。
存置と廃止。僕はその双方の主張を聞きたい。言い換えれば、坂本がどちらを主張するかは大きな問題ではない。存置であれ廃止であれ、その主張の骨格を確認したいし論理を聞きたいのだ。僕はとにかく身体から力を抜く。部屋の隅にたまった綿ぼこりのように、微やかな風や振動でふわふわと前後左右に動くように努めよう。最後に自分がどんな場所にいるのか、僕はそれを見届けたい(いつが最後なのかという問題は残るけれど)。とにかく存置であれ廃止であれ、そこに僕にとっての説得性があるかないかが重要なのだ。
・・・と『死刑』について、「存置」「廃止」の双方、それから、単なるシステムでも歴史でもない、死刑そのものについて俎上にあげて書いてみたいと追求した過程を記していった本でもある。
著者が「ロードムービー」と言っているように、ひたすら道を走って走って、どこに行くのか、何に出くわすのか、そんなハプニングすら待ちのぞんだ途上を記しているものなのだ。
死刑囚と接する刑務官と死刑囚、その周辺の人物を描く『モリノアサガオ』の作者への取材から、この行き着けない旅は始まった。
そしてニュースで、どこかでは聞いたことのある事件の死刑囚、その周辺へも寄る。
死刑になりたいから人を殺す。ありえないと言いたくなるけれど、死刑存置国であるアメリカでは、そんな実例はいくつも報告されている。
自分の悪行を少しでも正当化したいとの意識化の衝動が、逮捕後にひっそりと駆動して、「死刑になりたいがゆえに自分は人を殺したんだ」と思い込んでしまう場合はきっとある。あるいは多少はその要素があったとしても、それがあたかも100パーセントの動機であったかのように、意識の中で肥大してしまう場合もあるだろう。だから全否定はできない。要素はある。少しだけ。いろんな要素が混じりあっている。それがたぶん現実だ。一かゼロかではない。
でも同時に思う。殺された子供たちのことを。理由も必然も何もない。彼らはいつものように教室にいた。そして巻き込まれた。虚無だろうが偽装だろうが何でもいい。子供たちには関係ない。彼らが殺されねばならない理由などどこにもない。僕は話題を変えた。どうしても戸谷に聞いておきたかった質問だ。
「裁判中、あるいは判決が決まって控訴をしたとき、とても多くのメディアが宅間の弁護士である戸谷さんに集中しました。長い弁護生活の中でも、これほどメディアに晒されたのは初めてだと思いますけれど・・・・・・」
戸谷は静かにうなずいた。会うのは今夜が初めてだけれど、僕と戸谷とは以前、手紙で何度かやりとりをしたことがある。接見の際に宅間が人間らしい対応を示したことをメディアに伝えても、まったく報道されることはない。ところがいかにも人非人で異常であるかを強調するようなエピソードなら、メディアはここぞとばかり報道する。そんなことを戸谷は淡々と文面に記していた。
時おり戸谷が表出する感情は、僕の感覚では明らかに死刑廃止のベクトルだ。でも存置か廃止かと訊ねた僕に、戸谷は「あってもいいのかなあという気がしないでもない」と答えた。このまわりくどい二重否定に、現役の弁護士である戸谷の煩悶が、現在進行形で表れている。
事務所をあとにして駅に向かいながら、僕は強ばりきった背筋を伸ばす。宅間と濃密に接したからこそ、戸谷は死刑に意味を見出したのだろうか。あるいは結果としては圧倒的な「悪」に触れることで、贖いについて彼なりに煩悶した帰結なのだろうか。
論理から情緒へ
死刑をめぐるロードムービー。まだ取材を始める前に鈴木久仁子から本のイメージを訊ねられたとき、僕はそう答えたことがある。ならばあらゆる場所に行かねばならない。そこで僕は様々な人に出会い、様々な死刑を目撃する。(中略)
幼稚園の頃、先生によく叱られた。若い教育熱心な女性だった。叱られる前にしたことは悪いことだ。そして誉められる前にしたことは良いことだ。善悪の基準。自分が罰を受けるときだけでなく、他の誰かが罰を受ける様子を見ながら、この基準を子供は学ぶ。でも幼稚園の罰に死刑はない。せいぜいがお尻叩き。なぜなら死刑はその人を消滅させてしまうからだ。消しては懲罰の意味がない。
大人の社会にも懲罰はある。かつては世界中で死刑があった。今はその半数以上が死刑を廃止した。でも今この国には死刑がある。人は人を殺してはならない。害した人は害されねばならない。多く殺した人は殺されねばならない。そう考えることは自然なのだろうか。
生きる価値とは何だろう。誰もが生きる価値はある。でも誰かの生きる価値を損ねた人は、自らの生きる価値も放棄せざるを得ないのか。ならば命とは何だろう。人が人を殺すことの意味は何だろう。
・・・・・・どうやら、僕は、ほとんど何もわかっていない。どこにも到達していない。それなりには歩き回った。いろんな人に話を聞いた。でも断言できることはほとんどない。優柔不断であることは前からだけど、でもいまだにこのレベルでは話にならない。
・・・ロードムービーで、カメラを手にした旅人は大いに悩み、少し足踏みする。
風景ではなく自分を写してみたりする。
そしていきなり、ひらめき、思いつく。
近年の日本においては特に、発達したメディアを媒体にして、被害者遺族が抱く応報感情への第三者の共鳴が拡大しつつある(他国に比べて日本のメディアは、殺人事件を報道するパーセンテージが突出して高い)。これもまた裏返しの不安と恐怖の表れだ。価値や規範を可視化できない個々の苛立ちや恐れが、絶対的な正義の存在を希求する。人は規範に従いたい生きものなのだ。規範がないのなら無自覚に作り出す。そんな究極の規範がこの世界のどこかに存在していてほしい。人はそう願う。
これがこの国における死刑制度の本質だ。
冤罪や誤判がこれほど多いと言われても、社会防衛の効果は実はほとんどないと説かれても、この幻想の正義を崩壊させることに人は簡単に同意できない。そもそも論理に、意味など最初から置いていない。でって怖くて不安なのだ。つまり論理ではなく情緒。だからこそずっと水掛け論が続いている。(中略)
だから僕は軌道を修正する。死刑制度を整合化する最大の要素は論理ではない。情緒なのだ。ひとつは社会秩序の安定への希求。そしてもうひとつは、遺族の応報感情への共振。この二つの情緒に後付けで論理が薄く塗られている。
どこからどう、「情緒なのだ! 」に達したかは書かれていない。さんざん迷って、急に啓示を受けたように直感でひらめいたのかもしれない。自分のなかの混沌と濁った「死刑」像が急に見えてきたのだろう。
この本『死刑』を読んでも、それで考えがぶれることもあるだろうが、元々、きっと、「死刑」というものについて、「存置か廃止かどちらがいいのか結論が出ない」というのが本音なのではなかろうか? けれど、個々の人々は「どちらがいいか分からない」とは答えずに、「存置派」「廃止派」どちらかをつい意見してしまうように思う(直感)。それは確かに情緒に土台が置かれている考えなのだろうなあ、と(著者のひらめきにはなにも納得ができる説明がないのにもかかわらず)納得してしまう。
僕は第三者だ。非当事者だ。でも思うことはできる。
多くの人に触れることで、揺れ動く自分の情緒を見つめようと僕は考えた。その帰納として僕は何を得るのだろう。何を知ることができるのだろう。
そして何よりも、「僕にとっての死刑」に、この作業は輪郭を与えてくれるのだろうか。逆に混迷し始めている。当たり前だ。多くの情緒に触れるということは、多くの述語に触れるということだ。主語が揺らぐ。揺らいでほしかったのは述語のほうなのに。
お勧め度☆☆☆
死刑に賛否両論は当然あるけれど、誰かが自分のその意見について、反対者へ客観的に説得できる理論を持てるのか? といったらどうだろう。
死刑への賛否両論は、各個人の感情的な問題に発しているのではなかろうか?
というところで、幕を引いているように思った(し、そういう幕しかないのでは? でもそこからどうすればいいの? は分からない)。
ひとつ。遺族の処罰感情が判決に影響するのって、どうなのかな? とは前から思っていた。行きずり殺人は、何の関係もない相手を殺すのだから、当然「なぜ? 」と怒りたくなるだろう。けれど、「では、たまたま遺族と関係が薄くて、遺族からは特になにもなかったら? 罪は軽くなるの? 」「将来ある子どもを無関係の人が殺すと罪は重くて、たとえば失業中、住所不定、身内とは縁が切られている人〜つまり社会的つながりが希薄な人物が被害者だったら〜殺人者の罪は軽くなるのか? 」と考えると、遺族が厳罰を望むことは当然考慮に入るが、それが影響するというのはおかしくないか?
被害者はとても無念であっても、遺族の怒りが少ないとか、被害者は死に場所を見つけていたくらいなのに、遺族は厳罰を望んでいるとか、いくらでも考えられる遺族感情と被害者の気持ち、または罰と遺族感情と犯した罪についての無関係さ。
裁判のときに遺族が被告に対して、とうとうと被害者への思いを話したとして、それ自体が(もし被告がその時点ですでに反省し悔やみ詫びているならば)罰となっているとも思う。そうであってほしいと遺族は裁判に参加したいのだろうが、裁判で被告が全く悪びれていないときに、さらに二次被害を受けることもよくある話。
「殺人には死刑? 」という大きなこともそうだけれど、「裁判の仕方」であっても、結論なんかでないロードムービーをひたひた、多くの国民が歩いているのだろう。
そもそも、「人を殺してはならないもの」という前提があって、一方で必ず殺人は起こりうるものとして想定して刑法を作っていたりするのだから、「なぜ、あえて殺人しちゃったのか? 」は解明されてしかるべきなのでしょう。それは裁判においてであっても、その後の服役中であっても。
つい、殺人者に自分がならないとも限らない・・・とはあまり考えていない多くの人にとって、つい被害者や被害者遺族になる可能性ばかりを考えていたりせずに。