死刑 森達也著
![]() | 死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う 森達也 朝日出版社 2008-01-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
素直な人だなぁ、と著者を想像した。
戦略的に小洒落たエッセイを書くどこかの美人サンなんかよりも、はるかに無防備で、隙だらけで、こんな著書を世に出して怖くないのかしら? と心配になってしまう。
存置と廃止。僕はその双方の主張を聞きたい。言い換えれば、坂本*1がどちらを主張するかは大きな問題ではない。存置であれ廃止であれ、その主張の骨格を確認したいし論理を聞きたいのだ。僕はとにかく身体から力を抜く。部屋の隅にたまった綿ぼこりのように、微やかな風や振動でふわふわと前後左右に動くように努めよう。最後に自分がどんな場所にいるのか、僕はそれを見届けたい(いつが最後なのかという問題は残るけれど)。とにかく存置であれ廃止であれ、そこに僕にとっての説得性があるかないかが重要なのだ。
・・・と『死刑』について、「存置」「廃止」の双方、それから、単なるシステムでも歴史でもない、死刑そのものについて俎上にあげて書いてみたいと追求した過程を記していった本でもある。
著者が「ロードムービー」と言っているように、ひたすら道を走って走って、どこに行くのか、何に出くわすのか、そんなハプニングすら待ちのぞんだ途上を記しているものなのだ。
死刑囚と接する刑務官と死刑囚、その周辺の人物を描く『モリノアサガオ』の作者への取材から、この行き着けない旅は始まった。
そしてニュースで、どこかでは聞いたことのある事件の死刑囚、その周辺へも寄る。
死刑になりたいから人を殺す。ありえないと言いたくなるけれど、死刑存置国であるアメリカでは、そんな実例はいくつも報告されている。
自分の悪行を少しでも正当化したいとの意識化の衝動が、逮捕後にひっそりと駆動して、「死刑になりたいがゆえに自分は人を殺したんだ」と思い込んでしまう場合はきっとある。あるいは多少はその要素があったとしても、それがあたかも100パーセントの動機であったかのように、意識の中で肥大してしまう場合もあるだろう。だから全否定はできない。要素はある。少しだけ。いろんな要素が混じりあっている。それがたぶん現実だ。一かゼロかではない。
でも同時に思う。殺された子供たちのことを。理由も必然も何もない。彼らはいつものように教室にいた。そして巻き込まれた。虚無だろうが偽装だろうが何でもいい。子供たちには関係ない。彼らが殺されねばならない理由などどこにもない。僕は話題を変えた。どうしても戸谷に聞いておきたかった質問だ。
「裁判中、あるいは判決が決まって控訴をしたとき、とても多くのメディアが宅間の弁護士である戸谷さんに集中しました。長い弁護生活の中でも、これほどメディアに晒されたのは初めてだと思いますけれど・・・・・・」
戸谷は静かにうなずいた。会うのは今夜が初めてだけれど、僕と戸谷とは以前、手紙で何度かやりとりをしたことがある。接見の際に宅間が人間らしい対応を示したことをメディアに伝えても、まったく報道されることはない。ところがいかにも人非人で異常であるかを強調するようなエピソードなら、メディアはここぞとばかり報道する。そんなことを戸谷は淡々と文面に記していた。
時おり戸谷が表出する感情は、僕の感覚では明らかに死刑廃止のベクトルだ。でも存置か廃止かと訊ねた僕に、戸谷は「あってもいいのかなあという気がしないでもない」と答えた。このまわりくどい二重否定に、現役の弁護士である戸谷の煩悶が、現在進行形で表れている。
事務所をあとにして駅に向かいながら、僕は強ばりきった背筋を伸ばす。宅間と濃密に接したからこそ、戸谷は死刑に意味を見出したのだろうか。あるいは結果としては圧倒的な「悪」に触れることで、贖いについて彼なりに煩悶した帰結なのだろうか。
論理から情緒へ
死刑をめぐるロードムービー。まだ取材を始める前に鈴木久仁子から本のイメージを訊ねられたとき、僕はそう答えたことがある。ならばあらゆる場所に行かねばならない。そこで僕は様々な人に出会い、様々な死刑を目撃する。(中略)
幼稚園の頃、先生によく叱られた。若い教育熱心な女性だった。叱られる前にしたことは悪いことだ。そして誉められる前にしたことは良いことだ。善悪の基準。自分が罰を受けるときだけでなく、他の誰かが罰を受ける様子を見ながら、この基準を子供は学ぶ。でも幼稚園の罰に死刑はない。せいぜいがお尻叩き。なぜなら死刑はその人を消滅させてしまうからだ。消しては懲罰の意味がない。
大人の社会にも懲罰はある。かつては世界中で死刑があった。今はその半数以上が死刑を廃止した。でも今この国には死刑がある。人は人を殺してはならない。害した人は害されねばならない。多く殺した人は殺されねばならない。そう考えることは自然なのだろうか。
生きる価値とは何だろう。誰もが生きる価値はある。でも誰かの生きる価値を損ねた人は、自らの生きる価値も放棄せざるを得ないのか。ならば命とは何だろう。人が人を殺すことの意味は何だろう。
・・・・・・どうやら、僕は、ほとんど何もわかっていない。どこにも到達していない。それなりには歩き回った。いろんな人に話を聞いた。でも断言できることはほとんどない。優柔不断であることは前からだけど、でもいまだにこのレベルでは話にならない。
・・・ロードムービーで、カメラを手にした旅人は大いに悩み、少し足踏みする。
風景ではなく自分を写してみたりする。
そしていきなり、ひらめき、思いつく。
近年の日本においては特に、発達したメディアを媒体にして、被害者遺族が抱く応報感情への第三者の共鳴が拡大しつつある(他国に比べて日本のメディアは、殺人事件を報道するパーセンテージが突出して高い)。これもまた裏返しの不安と恐怖の表れだ。価値や規範を可視化できない個々の苛立ちや恐れが、絶対的な正義の存在を希求する。人は規範に従いたい生きものなのだ。規範がないのなら無自覚に作り出す。そんな究極の規範がこの世界のどこかに存在していてほしい。人はそう願う。
これがこの国における死刑制度の本質だ。
冤罪や誤判がこれほど多いと言われても、社会防衛の効果は実はほとんどないと説かれても、この幻想の正義を崩壊させることに人は簡単に同意できない。そもそも論理に、意味など最初から置いていない。でって怖くて不安なのだ。つまり論理ではなく情緒。だからこそずっと水掛け論が続いている。(中略)
だから僕は軌道を修正する。死刑制度を整合化する最大の要素は論理ではない。情緒なのだ。ひとつは社会秩序の安定への希求。そしてもうひとつは、遺族の応報感情への共振。この二つの情緒に後付けで論理が薄く塗られている。
どこからどう、「情緒なのだ! 」に達したかは書かれていない。さんざん迷って、急に啓示を受けたように直感でひらめいたのかもしれない。自分のなかの混沌と濁った「死刑」像が急に見えてきたのだろう。
この本『死刑』を読んでも、それで考えがぶれることもあるだろうが、元々、きっと、「死刑」というものについて、「存置か廃止かどちらがいいのか結論が出ない」というのが本音なのではなかろうか? けれど、個々の人々は「どちらがいいか分からない」とは答えずに、「存置派」「廃止派」どちらかをつい意見してしまうように思う(直感)。それは確かに情緒に土台が置かれている考えなのだろうなあ、と(著者のひらめきにはなにも納得ができる説明がないのにもかかわらず)納得してしまう。
僕は第三者だ。非当事者だ。でも思うことはできる。
多くの人に触れることで、揺れ動く自分の情緒を見つめようと僕は考えた。その帰納として僕は何を得るのだろう。何を知ることができるのだろう。
そして何よりも、「僕にとっての死刑」に、この作業は輪郭を与えてくれるのだろうか。逆に混迷し始めている。当たり前だ。多くの情緒に触れるということは、多くの述語に触れるということだ。主語が揺らぐ。揺らいでほしかったのは述語のほうなのに。
お勧め度☆☆☆
死刑に賛否両論は当然あるけれど、誰かが自分のその意見について、反対者へ客観的に説得できる理論を持てるのか? といったらどうだろう。
死刑への賛否両論は、各個人の感情的な問題に発しているのではなかろうか?
というところで、幕を引いているように思った(し、そういう幕しかないのでは? でもそこからどうすればいいの? は分からない)。
ひとつ。遺族の処罰感情が判決に影響するのって、どうなのかな? とは前から思っていた。行きずり殺人は、何の関係もない相手を殺すのだから、当然「なぜ? 」と怒りたくなるだろう。けれど、「では、たまたま遺族と関係が薄くて、遺族からは特になにもなかったら? 罪は軽くなるの? 」「将来ある子どもを無関係の人が殺すと罪は重くて、たとえば失業中、住所不定、身内とは縁が切られている人〜つまり社会的つながりが希薄な人物が被害者だったら〜殺人者の罪は軽くなるのか? 」と考えると、遺族が厳罰を望むことは当然考慮に入るが、それが影響するというのはおかしくないか?
被害者はとても無念であっても、遺族の怒りが少ないとか、被害者は死に場所を見つけていたくらいなのに、遺族は厳罰を望んでいるとか、いくらでも考えられる遺族感情と被害者の気持ち、または罰と遺族感情と犯した罪についての無関係さ。
裁判のときに遺族が被告に対して、とうとうと被害者への思いを話したとして、それ自体が(もし被告がその時点ですでに反省し悔やみ詫びているならば)罰となっているとも思う。そうであってほしいと遺族は裁判に参加したいのだろうが、裁判で被告が全く悪びれていないときに、さらに二次被害を受けることもよくある話。
「殺人には死刑? 」という大きなこともそうだけれど、「裁判の仕方」であっても、結論なんかでないロードムービーをひたひた、多くの国民が歩いているのだろう。
そもそも、「人を殺してはならないもの」という前提があって、一方で必ず殺人は起こりうるものとして想定して刑法を作っていたりするのだから、「なぜ、あえて殺人しちゃったのか? 」は解明されてしかるべきなのでしょう。それは裁判においてであっても、その後の服役中であっても。
つい、殺人者に自分がならないとも限らない・・・とはあまり考えていない多くの人にとって、つい被害者や被害者遺族になる可能性ばかりを考えていたりせずに。
- 注1
刑務官には守秘義務が課せられている。話を聞くことは難しい。ただし刑務官OBであれば、話を聞くことができるかもしれない。『元刑務官が明かす 死刑のすべて』や『元刑務官が明かす 死刑はいかに執行されるか』などのノンフィクションを発表した坂本敏夫
















