ジャック・メスリーヌ 世界を震撼させた犯罪王 ジャック・メスリーヌ著
早川書房 (2009-10-10)
「ジャック・メスリーヌ」の映画を観て、直後にこの本をラッキーにも見かけたので読んでみた。
映画を観たのも本を読んだのもラッキーとしかいいようがない。
この映画を観てからつい映画館に足を運ぶという習慣やそんな気になることすら戻ってきた。
そして、このブログを更新しようとする気さえ。
ジャック・メスリーヌとは、フランスとカナダで活躍した(?)盗人である。
映画の原作になったというこの本があることすら驚いたが、(「世紀の大泥棒の映画を観に行ったら、その原作がタイトルになっている泥棒その人が書いたものだった」から)その上、あらすじにしてしまえば映画のこの部分とほぼ変わらなくても、「あったこと」以上に「どうあったか」が分かるのが、本のよさではないか。
映画は、俳優がなんといってもチャーミング。服や年代ものの車など、時代が現れているのも見どころ。描かれる人物にも映像にも目をそらせない磁場がある。
歴史的なその時代に、別の角度から見たらこうなっていたということが、暗黒街、裏社会からも看て取れるのがいい。
けれども、そんなお題目はどうでもよくて、もともとのジャック・メスリーヌの人物も魅力的で、犯罪や規範を超えた生き様に圧倒される。映画なら「勝手にしやがれ」はこの人からつくられたんじゃないの? というくらい。
そこで社会を攻撃し、社会がおれの中のものを破壊したその代価を払わせることにしたのだ。社会の掟を否定し、群集について行くことを拒否すれば、遅かれ早かれそれが非常に高くつくであろうことは、承知のうえだ。おれは、はみ出し者の生活を送ればどんな危険がふりかかってくるかを冷静に考え、そのうえで前もってその代価を払うことを覚悟したのだ。社会的に自殺したのと同じことだった。おそらく、幸福についてのおれの考えはまちがっているのだろう。おれは知らなかった・・・・・・収入の少ししかない人がこのわずかばかりのものを自分の労働によって稼ぎ、それでいて幸福になれるということ、心が豊かであるためには必ずしも金が必要でないこと、時間がなくても束の間の余暇を利用すれば生活をはりのあるものにできること、家庭を持ち、自分のつくった子供たちが生きて行くのを見ることが健康な真の幸福の基礎であるということ、生活をその問題に正面から立ち向かうことこそ勇気というものだということ、そういうことがおれには分かっていなかったのだ。おれに分かっていたのは、今の仕事をやっていたら一生うだつが上がらないということだった。
P.83の、この「そこで」の前にあるものは、二十歳に狩り出されていった戦場のことだった。戦争に送り出した社会が戦争で受けた傷に触れることなく社会に復帰させようとしてもできないということ。もちろん、この主人公は、だから社会が悪くて自分はこうなったのだと居直っているだけではない。犯罪者の立場で生きていったらそれなりのツケは払わされると分かっていて、自分で選んでいる。けれど、その一因に知らんぷりをしているのもまた違うのだと言っているのではなかろうか。
社会は自由の名においておれに人を殺す権利---おれのまったく知らない人たち、戦争でもなかったら友達になったかもしれない人たちを殺す権利---を与えた。
彼の言っている「社会」が何を指すか、どういうもののことを言っているのかは、私には分からないけれど、(「周囲」でも「国家」でもあるが、含まれているだけで、それ自体を指し示しているものではないように思う)社会構造とでも言えばいいのか?
社会は犯罪者を作りうる構造をしているのだから、犯罪者個人の責任で犯罪が起こるのでもなく、犯罪は犯罪者を罰したり抹殺することでなくなるわけでも、それによってキレイな社会が成立するわけでもないのだ、ということなのかな。ただし自分はその立場にいる以上、リスクは引き受けるけど、仕打ちを一方的には甘んじて受けない。という宣言書なのかもしれない、この半自伝は。
刑務所に服役している最中にタイプを取り寄せてこの著書を書いたメスリーヌ。もちろん、つかまることもあるが、ちゃんと(?)脱獄だって繰り返す。地で行くアルセーヌ・ルパンのようだ。(華やかな犯罪と、ちょっとした憂い、大胆不敵な行動に、もちろん運命の女も絡んでくる。彼を追う刑事さえもいる。ないのは予告状だけ)
刑務所にだって、文句はつけたい。
これでは昔の徒刑場の方がましなくらいだった。スペインでさえ囚人の扱いははるかによく、昼間はずっと中庭に出ていられた。しかしフランスはあらゆる面で抑圧の国だ。この国の刑務所は、特定の人間を社会から隔離し、彼らに過ちを償わせるための場所ではない。現在の形の刑務所の目的はただ一つ、運悪くこの門をくぐってきた者を破壊してしまうことにあるのだ。何年も何年も前から刑務所の改革が発表されてきた・・・・・。しかし政府の約束は欺瞞だ。おれは騙されはしなかった。フランスの社会は刑務所の真実を知りたがらないようにできている。囚人がそこで自殺しようと、大怪我をしようと、麻薬中毒になろうと、あるいは心理的重圧で頭がおかしくなろうと、社会は知っちゃいない。壁は高く、絶望のうめきも憎悪の叫びも社会には聞こえない。社会にとって大事なのは、自分の良心に恥じるところがないようにしておくことだけなのだ。社会そのものはまた最も卑劣なやり方で間接的に報復という罪を犯しているのだということを知るには、刑務所の生活の実態をみなければならない。
そういうことのすべてを、おれはずっと前から自分の眼で見てきた。だからおれは、自分のこういう生き方を選んだことを少しも後悔しないようになった。おれは刑務所なんかに決して破壊されないと分かっていた。なぜならおれは戦う男、内なる不正義と戦う男だった。・・・・・たとえ投獄されても、おれの精神は娑婆にいたときと少しも変わってはいなかった。
そして、いまおれは待っている・・・・・。
おれの判決なんかづだっていうんだ・・・・・。そんなのはおれが求め選んだ生き方の結果に過ぎない。(中略)おれの真実がどんなに凄惨なものであろうと、おれは直視することをおそれてはいない。おれは人生のどの時点から今のような人間になってしまったのだろう。それはおれにも分からない。おれの心にどんな亀裂が生じて、この世の生を粗末にするようになったのだろう。誰かがそのわけを見つけてくれるだろうか。おれにはどんな言い訳も思いつかない。おれは社会を裁きたいのではない。自分を裁くだけで充分だ。人は時として自分の最良の審判者なのだ。自由の門が自分には永久に閉ざされていることは分かっている。死んだ方がましなのだ・・・・・が、それでも生の意欲があるのだ。
子供のころから、おれは死と暴力に眼を見張ってきた。大人たちが自由の名の下にやった戦争が、心にずしりとこたえた。
成人するとおれは自分でそいつをやった。別の戦争、別の暴力である。国家の吹奏のもとに行われる集団殺戮は讃美される。だが実際に経験した戦争、話に聞かされた戦争、身にしみた戦争はおれに生を尊重することを教えてはくれなかった。おれはラ・マルセイエーズの吹奏のもとに手に武器を持たされた。そしてこの手が武器を好きになった。おれは暴力を教えられ、そして暴力が好きになった。
おれが生まれたその日以来、世界じゅうで人びとは、自分の行為を正当化するために高く掲げている理想の名において、たがいに集団虐殺を犯し、殺し合い、裏切り合い、欺き合っている・・・・・。そこでだ、いま判事たち、告発者たちがおれを前にして生命の尊重を説いてもおれはなんとも思わないのだ。なぜなら、人間はおたがいにとってオオカミだからだ。
お勧め☆☆☆☆☆
映画も2本立てで5時間くらいあったが、これが大当たりでございます。ぜひとも観てほしい。リバイバル上映してほしい。


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