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27 April 2009

死刑 森達也著

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
森達也

朝日出版社 2008-01-10


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素直な人だなぁ、と著者を想像した。
戦略的に小洒落たエッセイを書くどこかの美人サンなんかよりも、はるかに無防備で、隙だらけで、こんな著書を世に出して怖くないのかしら? と心配になってしまう。
存置と廃止。僕はその双方の主張を聞きたい。言い換えれば、坂本*1がどちらを主張するかは大きな問題ではない。存置であれ廃止であれ、その主張の骨格を確認したいし論理を聞きたいのだ。僕はとにかく身体から力を抜く。部屋の隅にたまった綿ぼこりのように、微やかな風や振動でふわふわと前後左右に動くように努めよう。最後に自分がどんな場所にいるのか、僕はそれを見届けたい(いつが最後なのかという問題は残るけれど)。とにかく存置であれ廃止であれ、そこに僕にとっての説得性があるかないかが重要なのだ。


・・・と『死刑』について、「存置」「廃止」の双方、それから、単なるシステムでも歴史でもない、死刑そのものについて俎上にあげて書いてみたいと追求した過程を記していった本でもある。
著者が「ロードムービー」と言っているように、ひたすら道を走って走って、どこに行くのか、何に出くわすのか、そんなハプニングすら待ちのぞんだ途上を記しているものなのだ。

死刑囚と接する刑務官と死刑囚、その周辺の人物を描く『モリノアサガオ』の作者への取材から、この行き着けない旅は始まった。
そしてニュースで、どこかでは聞いたことのある事件の死刑囚、その周辺へも寄る。

死刑になりたいから人を殺す。ありえないと言いたくなるけれど、死刑存置国であるアメリカでは、そんな実例はいくつも報告されている。

自分の悪行を少しでも正当化したいとの意識化の衝動が、逮捕後にひっそりと駆動して、「死刑になりたいがゆえに自分は人を殺したんだ」と思い込んでしまう場合はきっとある。あるいは多少はその要素があったとしても、それがあたかも100パーセントの動機であったかのように、意識の中で肥大してしまう場合もあるだろう。だから全否定はできない。要素はある。少しだけ。いろんな要素が混じりあっている。それがたぶん現実だ。一かゼロかではない。
 でも同時に思う。殺された子供たちのことを。理由も必然も何もない。彼らはいつものように教室にいた。そして巻き込まれた。虚無だろうが偽装だろうが何でもいい。子供たちには関係ない。彼らが殺されねばならない理由などどこにもない。僕は話題を変えた。どうしても戸谷に聞いておきたかった質問だ。
「裁判中、あるいは判決が決まって控訴をしたとき、とても多くのメディアが宅間の弁護士である戸谷さんに集中しました。長い弁護生活の中でも、これほどメディアに晒されたのは初めてだと思いますけれど・・・・・・」
 戸谷は静かにうなずいた。会うのは今夜が初めてだけれど、僕と戸谷とは以前、手紙で何度かやりとりをしたことがある。接見の際に宅間が人間らしい対応を示したことをメディアに伝えても、まったく報道されることはない。ところがいかにも人非人で異常であるかを強調するようなエピソードなら、メディアはここぞとばかり報道する。そんなことを戸谷は淡々と文面に記していた。

 時おり戸谷が表出する感情は、僕の感覚では明らかに死刑廃止のベクトルだ。でも存置か廃止かと訊ねた僕に、戸谷は「あってもいいのかなあという気がしないでもない」と答えた。このまわりくどい二重否定に、現役の弁護士である戸谷の煩悶が、現在進行形で表れている。
 事務所をあとにして駅に向かいながら、僕は強ばりきった背筋を伸ばす。宅間と濃密に接したからこそ、戸谷は死刑に意味を見出したのだろうか。あるいは結果としては圧倒的な「悪」に触れることで、贖いについて彼なりに煩悶した帰結なのだろうか。


論理から情緒へ
 死刑をめぐるロードムービー。まだ取材を始める前に鈴木久仁子から本のイメージを訊ねられたとき、僕はそう答えたことがある。ならばあらゆる場所に行かねばならない。そこで僕は様々な人に出会い、様々な死刑を目撃する。(中略)
 幼稚園の頃、先生によく叱られた。若い教育熱心な女性だった。叱られる前にしたことは悪いことだ。そして誉められる前にしたことは良いことだ。善悪の基準。自分が罰を受けるときだけでなく、他の誰かが罰を受ける様子を見ながら、この基準を子供は学ぶ。でも幼稚園の罰に死刑はない。せいぜいがお尻叩き。なぜなら死刑はその人を消滅させてしまうからだ。消しては懲罰の意味がない。
 大人の社会にも懲罰はある。かつては世界中で死刑があった。今はその半数以上が死刑を廃止した。でも今この国には死刑がある。人は人を殺してはならない。害した人は害されねばならない。多く殺した人は殺されねばならない。そう考えることは自然なのだろうか。
 生きる価値とは何だろう。誰もが生きる価値はある。でも誰かの生きる価値を損ねた人は、自らの生きる価値も放棄せざるを得ないのか。ならば命とは何だろう。人が人を殺すことの意味は何だろう。
 ・・・・・・どうやら、僕は、ほとんど何もわかっていない。どこにも到達していない。それなりには歩き回った。いろんな人に話を聞いた。でも断言できることはほとんどない。優柔不断であることは前からだけど、でもいまだにこのレベルでは話にならない。

・・・ロードムービーで、カメラを手にした旅人は大いに悩み、少し足踏みする。
風景ではなく自分を写してみたりする。
そしていきなり、ひらめき、思いつく。
近年の日本においては特に、発達したメディアを媒体にして、被害者遺族が抱く応報感情への第三者の共鳴が拡大しつつある(他国に比べて日本のメディアは、殺人事件を報道するパーセンテージが突出して高い)。これもまた裏返しの不安と恐怖の表れだ。価値や規範を可視化できない個々の苛立ちや恐れが、絶対的な正義の存在を希求する。人は規範に従いたい生きものなのだ。規範がないのなら無自覚に作り出す。そんな究極の規範がこの世界のどこかに存在していてほしい。人はそう願う。
 これがこの国における死刑制度の本質だ。
 冤罪や誤判がこれほど多いと言われても、社会防衛の効果は実はほとんどないと説かれても、この幻想の正義を崩壊させることに人は簡単に同意できない。そもそも論理に、意味など最初から置いていない。でって怖くて不安なのだ。つまり論理ではなく情緒。だからこそずっと水掛け論が続いている。(中略)
 だから僕は軌道を修正する。死刑制度を整合化する最大の要素は論理ではない。情緒なのだ。ひとつは社会秩序の安定への希求。そしてもうひとつは、遺族の応報感情への共振。この二つの情緒に後付けで論理が薄く塗られている。

どこからどう、「情緒なのだ! 」に達したかは書かれていない。さんざん迷って、急に啓示を受けたように直感でひらめいたのかもしれない。自分のなかの混沌と濁った「死刑」像が急に見えてきたのだろう。

この本『死刑』を読んでも、それで考えがぶれることもあるだろうが、元々、きっと、「死刑」というものについて、「存置か廃止かどちらがいいのか結論が出ない」というのが本音なのではなかろうか? けれど、個々の人々は「どちらがいいか分からない」とは答えずに、「存置派」「廃止派」どちらかをつい意見してしまうように思う(直感)。それは確かに情緒に土台が置かれている考えなのだろうなあ、と(著者のひらめきにはなにも納得ができる説明がないのにもかかわらず)納得してしまう。 

 僕は第三者だ。非当事者だ。でも思うことはできる。
 多くの人に触れることで、揺れ動く自分の情緒を見つめようと僕は考えた。その帰納として僕は何を得るのだろう。何を知ることができるのだろう。
 そして何よりも、「僕にとっての死刑」に、この作業は輪郭を与えてくれるのだろうか。逆に混迷し始めている。当たり前だ。多くの情緒に触れるということは、多くの述語に触れるということだ。主語が揺らぐ。揺らいでほしかったのは述語のほうなのに。


お勧め度☆☆☆
死刑に賛否両論は当然あるけれど、誰かが自分のその意見について、反対者へ客観的に説得できる理論を持てるのか? といったらどうだろう。
死刑への賛否両論は、各個人の感情的な問題に発しているのではなかろうか?
というところで、幕を引いているように思った(し、そういう幕しかないのでは? でもそこからどうすればいいの? は分からない)。

ひとつ。遺族の処罰感情が判決に影響するのって、どうなのかな? とは前から思っていた。行きずり殺人は、何の関係もない相手を殺すのだから、当然「なぜ? 」と怒りたくなるだろう。けれど、「では、たまたま遺族と関係が薄くて、遺族からは特になにもなかったら? 罪は軽くなるの? 」「将来ある子どもを無関係の人が殺すと罪は重くて、たとえば失業中、住所不定、身内とは縁が切られている人〜つまり社会的つながりが希薄な人物が被害者だったら〜殺人者の罪は軽くなるのか? 」と考えると、遺族が厳罰を望むことは当然考慮に入るが、それが影響するというのはおかしくないか?
被害者はとても無念であっても、遺族の怒りが少ないとか、被害者は死に場所を見つけていたくらいなのに、遺族は厳罰を望んでいるとか、いくらでも考えられる遺族感情と被害者の気持ち、または罰と遺族感情と犯した罪についての無関係さ。

裁判のときに遺族が被告に対して、とうとうと被害者への思いを話したとして、それ自体が(もし被告がその時点ですでに反省し悔やみ詫びているならば)罰となっているとも思う。そうであってほしいと遺族は裁判に参加したいのだろうが、裁判で被告が全く悪びれていないときに、さらに二次被害を受けることもよくある話。

「殺人には死刑? 」という大きなこともそうだけれど、「裁判の仕方」であっても、結論なんかでないロードムービーをひたひた、多くの国民が歩いているのだろう。

そもそも、「人を殺してはならないもの」という前提があって、一方で必ず殺人は起こりうるものとして想定して刑法を作っていたりするのだから、「なぜ、あえて殺人しちゃったのか? 」は解明されてしかるべきなのでしょう。それは裁判においてであっても、その後の服役中であっても。
つい、殺人者に自分がならないとも限らない・・・とはあまり考えていない多くの人にとって、つい被害者や被害者遺族になる可能性ばかりを考えていたりせずに。
  • 注1
    刑務官には守秘義務が課せられている。話を聞くことは難しい。ただし刑務官OBであれば、話を聞くことができるかもしれない。『元刑務官が明かす 死刑のすべて』や『元刑務官が明かす 死刑はいかに執行されるか』などのノンフィクションを発表した坂本敏夫

19 April 2009

睡蓮の池 アニカ・トール著 菱木晃子訳

睡蓮の池―ステフィとネッリの物語睡蓮の池―ステフィとネッリの物語
Annika Thor著 菱木 晃子訳

新宿書房 2008-05


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ステフィとネッリは姉妹。
ステフィはスウェーデンのある島から本土の中学へと進学する。

島には養父母が暮らす。
姉妹は、スウェーデンの「子どものみ受け入れる政策」によって、ドイツに併合されたウィーンから預けられ、やってきた。
妹とは別の家庭に受け入れられたが、養親とも慣れ、愛情を感じられるようになったころだった。
中学へ進学を希望していたステフィは、養父母の家からは経済的には進学は難しかったのだが、夏の間、別荘として島の家に避暑に来ていた医者の家族と出会い、下宿先として援助してもらえることになった。

その、都会〈イェーテボリ〉*1での中学生活の様子がこの『睡蓮の池』。
睡蓮の池とは、進学した学校の近くにある、ステフィにとって心の拠り所になる大切な場所。想いを寄せている下宿先の息子に教えてもらった場所だったから。

原作では四部作になっているそうで、第1巻が『海の島』。3,4巻は未訳。
お願いだから、早く(そして丁寧に)訳してください→訳者さま。

私はこの本から読み始めたせいか、1巻よりこちらの方が印象深かった。

主人公はユダヤ人ということで難を逃れて移住して(というより疎開という感じがする)きたのだが、テーマは迫害物として読むよりも、そういう状況下に置かれた少女の成長物語*2として考えたほうが合っている。
この著者、素材の使い方がとっても巧い。
イェーテボリという街も、ステフィやそのクラスメイトの数人もそれぞれ、生々しい感じがして、とかく生気を感じるのだ。


お勧め度☆☆☆
'ああ、ユダヤ人の迫害モノね’とは読まないでほしいと、たぶん著者が願っている気がする言葉遣いなのだ。それよりもたぶん、'イェーテボリに暮らしていた少女の物語’として、町への愛情を感じる。そのなかで、'この町には、大戦中にこんな少女も暮らしていたのよ’というフィクションを作り上げたところに魅力の軸足があると思う。もちろん、スウェーデンの微妙な「中立政策」や「ドイツ圏でのユダヤ人迫害」という歴史的事実を踏まえてはいるけれど。

海の島―ステフィとネッリの物語海の島―ステフィとネッリの物語
Annika Thor著 菱木 晃子訳

新宿書房 2006-06-01


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後に第1巻『海の島』を読む。

私は、第2巻の方が(先に読んだからかもしれないが)好き。*3ステファの「中学時代」という時期がいいのかも。姉妹の、(ウィーンでの)ドイツ語→スウェーデン語という言語環境の変化が、年齢によって違う点も、なんだか共感できる。*4

☆☆☆にしたけれど、ぜひとも12歳前後にこういう本を何冊も読める環境にいたいと思う。その年齢付近の子が来る図書館なら☆☆☆☆☆で置いてほしいなあ。
  • 注1スウェーデン第二の都市。スウェーデンの中では最も南にある都市。著者もここで生まれた。
  • 注2こういう言い方はさわやかで前向きな印象が強すぎて好みではない
  • 注3アニカ・トールづいていた読書は1月末ごろ。あぁ、毎日面白い本が読めて充実しているなぁ、と満喫していたころ。そして、そんなころはブログを書く余裕のないくらい読んであそんでいた。愉楽。半分はフィクションに住んでいたなーと、自分の小学生のころの本とのお付き合いを思い出たものだった。
  • 注4私自身は小学校入学と同時に日本語の方言バイリンガル的な生活に入ったため

18 April 2009

サクリファイス 近藤史恵著

サクリファイスサクリファイス
近藤 史恵

新潮社 2007-08


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陸上競技での「一番」を目指す走りに、記録は十分に出していたが、心理的に限界を感じていた。
そんなとき、自転車競技を見て、一番になれると分かっているのに一番を逃すこともある、チームワークと役割をわきまえた走りを謎に感じ、その新鮮な驚きに取り込まれ、自転車競技に転じた。
チームのトップが一番で上がり、そのために犠牲になる走りをする選手が一方でいる。
そんな自転車競技に見せられたのだ。

自転車競技が盛んなのは、フランスやスペイン。
ツール・ド・フランスもあれば、そう名作・映画『アンダルシアの茄子』もあった。
茄子 アンダルシアの夏茄子 アンダルシアの夏
高坂希太郎 黒田硫黄

バップ 2007-10-24


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自転車競技。事故も避けられないことが多く、生き死にの瀬戸際ということもある。
白石誓(チカ)は、今の実業団チームでアシストの立場でいる。つまり風よけとなり、先に走り、優勝を手にする選手を最後に行かせる立場。

2番手、3番手だった白石誓が、そのアシストという立場ゆえに、所属チームでの競技・試合の勝敗への起伏、またはこのドラマ自体の起伏に絡めとられ、また生かされてしまう重苦しさにも関わってしまう。チーム競技ゆえに、同チーム内での力関係や駆け引きもある(もちろん、エースを活かすことがチーム勝利への近道だ)。

《サクリファイス》…犠牲となるか、ならされるか、それともなられるか。

二転三転する筋立てに「サクリファイス」というテーマをからめて、もう、これはミステリ以上にミステリらしいのでは? と思ったら、著者は元はミステリを書いていた人だったのです。
「サクリファイス」=犠牲を強いる側と、あくまでサポートに徹する側とが、競技のなかで役割としてある競輪というスポーツ自体が、この物語に不可欠の世界だったと感じ入る。

お勧め度☆☆☆☆☆
2008年の一番の小説だったと言えます。(翻訳ものでは『アメリカにいる、きみ』があるが)
真夏に読んだのだが*1、あまりによすぎて、なかなかここに書けなかった。買って手元において再読しましょう。
余談だけど、表紙とタイトルはちょっとインパクトが小さくて、売り上げには貢献できなかったのでは? (だから本屋大賞は2位になってしまったのでしょう)
『サクリファイス』だと、同タイトルの『犠牲 サクリファイス』(柳田邦男著)を思い浮かべてしまうし、タイトルに込めた意味も後者の方が深みがあるように感じる。
  • 注17月4日に読了

10 February 2009

うまれてきたんだよ 内田麟太郎・文 味戸ケイコ・絵

うまれてきたんだよ (エルくらぶ)うまれてきたんだよ (エルくらぶ)
内田 麟太郎・文

解放出版社 2008-10-06


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こわいよ〜。
こわい絵本だよね〜。

絵本は子どもだけのものじゃない! 大人こそ絵本が必要! とは柳田邦男氏の運動だけれど、たしかにこれはいくら味戸ケイコがファンシータッチで絵を描こうとも、子ども向けではない。子どもに必要はないし分からないはず。そうであってほしい。


パステル画で、幼な子が座ってうつむいている姿が描かれている表紙。
「うまれてきたんだよ」と。
うまれてきたのはあのとき。 それは、いつ? どんなふうに? なぜ、うつむいている? といった不安を呼び起こすような場面の表紙画が右上にある装丁。


1ページめ。
希望のような「うまれてきた」のページ。
「ぼく うまれたんだって。」

やさしくやわらかい光を虹色に浴びているような、誕生。

次のページ。
「さんねんでしんだんだって」。

いきなり、表紙と同じタイプの絵になる。 陰のなかにいる幼な子。

子どもが語り手になることで、子どもが主役であるよりさらに衝撃的だ。
そして、もう死んでいる人が語り手であることに、ここからの遠さを感じる。
彼岸に逝ってしまった幼な子。
その子がまだ今もそこにいるかのように語りかける。
語りかけてくる。

次のページ。
「いつも なぐられていたんだって。」

ことばのの下には、後ろ向きのぐったりとした子ども。か細い手足。
右側には、立ち上がることもできそうにない弱々しさが影に向かって倒れそうにやっと両手をついて、すわっている。

次のページ。
「おなかを すかし、 とじこめられて いたんだって。
ひもじくて かみを たべていたんだって。」


・・・この暗闇につづく陰のなかで、ずっとこの子は生きていたんだ と思う。
でも、「〜していたんだって」の口調からは、この子はもうここにはいないと明らかにされている。
このまま、何ページか虐げられた生の様子が子どもの口から語られ続ける。闇のそばで生きていた短い生が語られている。

そして一方で、最初のページのような、まばゆい光のなかで生を受け愛を浴びて生きているもう一人の幼ない女の子の姿のページが挟まれる。
両親や姉と語らい合う姿。満ち足りた笑顔。あたたかく抱きしめられている至福の瞬間。
 「あれは なに? なにを しているの? 」
 「あれは なんなの?」  
 、とこちら側から見ているのは男の子。

愛を受けることを覚えないまま、見ているだけ。
見て、何か知りたい、けれどそれは何か分からないという哀れ。
なのに何か分からないそれを、求めている。

こんなに、怖くて苦しげで痛々しいページをめくったことがない。


最後のページ。
うまれたときに、たとえ人間が祝福してくれなかったとしても、
「かぜが そのとき いってくれたんだって。 」

と、生まれた瞬間、外気に触れた一人の子どもの誕生を見せている。
一人の子どもを迎えたこちらの世界で、私たちは「ようこそ」と言えるの?
という、強くてこわくて鋭い問いが向けられている。

この絵本のページを平気でめくれる人はいないでしょうよ。

お勧め度☆☆☆☆
よくぞ出してくれましたの絵本ではあります。
が、一点だけ。
味戸ケイコのファンシーな絵はかわいらし過ぎる感じもする。
もっと毒でも愛でも圧倒的な力があってもいい気もする。
満ち足りている女の子の方の画につけるストーリーなら合うのだろう・・・例えば雨降りの日のお迎えだとか、初めてのお遣いだとか、妹が生まれたとか。

暗い方の画も、とてもこわく感じるし、弱っていくつらい子どもの感じが分かる。なのに、ちょっと違和感があるのは「きれい」だからかしらん。「いとしさ」や「いつくしみ」といった丸みがありすぎているのかも。
たとえば(そんな病気があるのか知らないが)先天的な病気で感情を感じられず笑えない子どもと、虐げられた結果として表情のこわばった子どもの違いが、画面からは分からない。積極的に虐げられた訳ではなくても、人間に触れ合う機会が極端に少なくて無表情になる子どもであってもいいような画面に感じるのだ、臭くないというか、汚くないというか。(そこまで描いてしまったら、絵本としての美から遠ざかり、読まれないかもという不安があったのかもしれないけれど)
味戸さんの絵*1は嫌いじゃないし、やさしくてかわいらしくていつくしむような表現にはぴったりだし、幼い女の子の描くようなやさしいラインを基調にした絵の最上級にいると思うけれどね。
  • 注1佐々木丸美のカバーも手がけているじゃあありませんか! あの、北の館のひめ物語、いつくしみ願望の最上級ですわ

04 February 2009

パリママの24時間 仕事・家族・自分 中島さおり著 

パリママの24時間  仕事・家族・自分パリママの24時間 仕事・家族・自分
中島さおり

集英社 2008-10-23


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『パリの女は産んでいる』の著者による、パリママ15人へのインタビュー。
生の声から、生活スタイルが仕事と育児と合わせて仔細に分かるので、「ああ、本当にたいへんなんだな」ということが赤裸々に分かる。

ただ筆者も言っているように、個人的な知り合いや知人をたどって知り合った人ばかりなので、偏っているだろうということ。例えば著者が入れたかったイスラム系の女性は個人が特定されるような表の場に出られる人はいなかったということ、不満や困惑はあっても仕事も育児もなんとか回している人(インタビューに答える余裕のある人)ということは仕方がないかも。

フランスが日本より「産みやすい」理由は、婚外子でも珍しくないこと、婚姻に関わらず(固定カップルのうち婚姻している人は半数くらいらしい)子どもに対して差別がないこと、シングルママが半数くらい、といった「子ども誕生までのハードルの低さ」があるだろう。
社会全体があまり「女に母性を無条件に求めない」ということも要因だと思う。

専業主婦がマイナーなのは、財産管理権を主婦に任せない(稼ぐ人が管理する)、すべての離婚は裁判制(協議離婚はないので離婚がやっかい)など、必ずしも女性の権利が大きいからではなく、他のルートからたまたまこうなったのだけれど、日本のように「就職して結婚して子育て専任要員を確保して」といった面倒な前置きがなくても、出産条件が解放されているのはいいかも。結婚(して離婚しない)が条件から外れたらもっと楽に産めるかもという。(日本でもそういう人はいるのに、少数派というネックがある)

あとは「幼年学校」という3歳以上の子どもが、義務ではないがほとんどの子どもが通う場所があること、途中からでも仕事に就くことができる、女性が働いているのが当然、など。
それから、「子育ては、誰かが密着してずっと面倒をみなければ」という母子一体型の子育て観もない。相性のいいベビーシッターの確保は難しいが、できないわけではない。


(そういえば、日本だって戦前は「ねえや」さんが子どもの面倒を見ていたではないか、と考えられないこともない。貧富格差によるベビーシッターの確保が必須なのか? 
それより何より肝心なのは、父親が子どもを育てられるかということだと思うけれど。)

カップルによって、うまくできていて、何でも半分の人もいれば、夫よりたくさん働いて家事を任せる型の夫婦もいれば、休日も趣味で出かける夫に対して「でも頼めばやってくれる」という妻もいるという。

この本を読んで、日本とは違う社会のやり方を見てみる、違う考え方に出会ってみるという息抜きができそう。
私が一番いいなあと思うのが、途中から社会参加しやすいということ。
新卒で就職するだとか、余裕をもって結婚してから出産するとか、なんだか人生の進路の軸が一本しか想定されていないような社会制度が不自由だなぁとかねがね思ってきたので、子どもがいてから結婚してもいいし、一本道の経歴でなくてもいい仕事にめぐり合えるということの方が希望になるのだと思う。

お勧め度☆☆

ただ、もっとも出生率さえ上げればいいという風潮は間違いだと思うけれど。
産みたい人が産みにくい社会(または条件さえ整えばという状態にならない)はよろしくないし、助けたほうがいいけれど、若い女に向かっていきなり「産めよ」という世間サンの露骨さはなんとかしていただきたい。(未婚の人に対して結婚して産めよ、も同じ)
将来の納税者が減って困るというのは、昔「産めよ増やせよ」をした政策ミスのつけじゃないの? ベビーブームは平和の産物というより戦争中の抑圧からの解放じゃないの?

それに、子どもは「産む」のも大変かもしれないが、「育てて」こそなんだよねえ。
つい生まれてしまって虐待される子は少数かもしれないけれど、そういう子を作らないような方法も考えたほうがいいのでは?

04 February 2009

パリの本屋さん ジュウドゥポウム著

パリの本屋さんパリの本屋さん
ジュウドゥポゥム

ジュウドゥポゥム 2008-04


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ジュウ・ドゥ・ポウム著の本は、パリやスウェーデンの個人宅の部屋の写真コレクション『パリのアパルトマン』『スウェーデンのキッチン』など、ライフスタイルを写真で見せてしまう本をたくさんだしている著者(著者というよりエージェント)。

ジュウ・ドゥ・ポウムHP
http://www.paumes.com/

「旅行に行かないけれど行った気分を味わいたいからガイドブックを読む」という、空想旅行はよくすることだと思う。
では、「住んでないけれど住んだ気分で散歩や行きつけの場所をつくって、現地ライフを楽しむ」という方法だってあるはず!

村上香住子の『巴里ノート 今のパリをみつめつづけて』では文章からわき立つスノッブライフが香ってきたけれど、ジュウドゥポウムでは、写真も編集もおしゃれでナチュラルな落ち着きがあって、安心して眺められる。

この『パリの本屋さん』は、パリの小さな本屋さんからポンピドゥー・センターまでなんでもある。
映画専門の小さなお店。美術館付属のミュージアムショップなのに2万冊の蔵書のあるショップ。
店構えも書架も凝っていて、全部巡りたくなるみたい。
(神保町のお散歩も楽しいもんねえ・・・)


パリと言えば、の文学カフェだって載っている。
ショップや図書館の合間のページには、パリ在住の建築家や編集者の本棚拝見コーナーもあって、どこの本屋に行こうと圧倒されているなかで、箸休めにもなる。

職場のセンパイは数年前、新婚旅行でパリに行き、古本屋めぐりをしたという。そういうの、いいですねえ。
でも本格的に旅行しなくたって、部屋でカフェオレを作ってページを眺めていれば、簡単にトリップできちゃう。
行きたいなあと本気になって考える人には住所までちゃんと載っているのだから、次の長期休暇にだって使える。

お勧め度☆☆
私が行ってみたいのは、子ども本の専門店「Chantelivre」。日本でいえば教文館のナルニア国といったところか。
日本版のすてきな本屋さん特集は雑誌MOEの特集でたまに入っています。
あら! それが本になったのが↓こちらでした。(この本も早く見なきゃ!)

絵本好きが集まる絵本屋さん100 (MOE BOOKS)絵本好きが集まる絵本屋さん100 (MOE BOOKS)
MOE編集部

白泉社 2008-12


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図書館の利用者でこういう、海外のライフスタイル込みの小洒落た写真を借りる方が何人かいる。(それで出会えた本なのだが) 雑貨屋さんの小物の延長の本屋さん、という「恵文堂」なども人気だという。

本も一冊一冊では特別に興味があるもの個々を選んでいくだけしか出会えないけれど、コレクションにしてしまうと、その全体が特色ある世界を彩っていき、世界観のファンがつく。
よく借りられている著者は小説に限らず、料理なら枝元ほなみ、ウーウェン、など、ライフスタイルに広がっているのは栗原はるみ、雑貨からライフへと広がっているのが雅姫、などこの人の本は定番読者がいるんだよねという著者が、分野に限らずスタイルで勝負しているみたい。(小林カツ代は「料理なら任せて! 」の方なのだけれど、ライフスタイルという側面はなし)
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